在外研究 in スイス…第3週(4月22日~4月28日)

4月22日(月),この日から娘たちの学校が始まる.前日・前々日の夜は,長女が不安を覚えてなかなか寝付けなく,まだまだ小さいとはいえ,杞憂と思われるようなことも含めて彼女なりにいろいろと心配しているようで,とてもかわいそうだった.
当日朝も,長女は不安そうでおびえているようだった.
朝学校まで送っていき,長女を私が,次女を妻が,教室まで送ることにした.午前8時から8時45分までに登校するようにとのことだが,この日は8時に来るように言われたので,少し前に校舎の前で待った.8時に校舎が開くと,ぞろぞろと校舎内へ.子どもたちは,教室の前で並んでいた.いろいろと聞きながら準備をした.ここで,靴を脱いで上履きに履き替える.そして,教室の前に設置されたおやつ入れの箱に用意してきたおやつを入れるなど.そうしている間に,子どもたちは並んで教室の中へ.娘も後から教室に入った.特段に「今日から新入生が来ました」と紹介されたりするふうでもなく,ふつうの一日が始まるかのような感じだった.ぼくは,もしかすると,何か紹介でもしないといけないのではないかと緊張していたが,何もなくて,肩すかしをくらった感じだった.娘の隣の席には,先ほど子どもたちが並んでいるときに「おはようございます」と声をかけてくれた男の子が座っており,ああ,この子が,ハーフの子なんだなとわかった.
ともあれ,それ以上はすることはなさそうなので,次女の教室に行ってみた.次女の方では,妻が来たときの準備について教えてもらっており,ぼくも妻から簡単に伝え聞いた.韓国系の子がいるようで,その父親と妻が挨拶を交わしていた.帰宅後もらった名刺をよく見てみると,日本の某広告会社のこちらの支店勤務らしい.片言の日本語をしゃべったりするようだったので,そういうことかとわかった.翌日は,私が長女も次女も送りに行ったので,そのときに彼と少し話をしたが,韓国系とはいえ,生まれはロンドンでずっとそちらで育ったなどと言っていた.いろんな人たちがいる街だなと,改めて思った.
昼食になると,子どもたちが帰ってきて,うちで昼食をとる.来週からは,GIAPという団体がやっている昼食サービスを受けることになったが,今週いっぱいは手続きが間に合わず,こういう形である.11時40分に娘たちを迎えに行くと,楽しそうな表情をしていた.長女は開口一声「お友だちができたよ!」と.長女も次女も,何かずっと遊んでいたらしい.お勉強は?と聞いたら,してない,とのこと.何をしていたのか,どういう教育メソッドなのかよくわからないが,とにかくいわゆるお勉強的な感じではなかったらしい.長女は鬼ごっこをしたとのこと.次女は絵を描いたりしていたらしい.長女に,お友だちのお名前は?と聞いたら,わからないと.これは,いつものパターンではある.日本にいるときも,公園ですぐに見ず知らずのこと遊べるという得意技を持っていた長女にとって,名前はともかく一緒に遊べるようになることが,まず何よりもお友だちへの第一歩なのだろう.
昼食を終えて子どもたちを再び学校に連れて行き,16時にお迎えに行った.やはり,楽しかったらしい.次女はともかく長女も宿題もないらしく,特にカバンの中にもそれらしいものもなかったので,本当にないのだろうと思われた.逆に,何もないというのは,大丈夫なのだろうか?とも思ったが,しらばく様子見である.
子どもたちは,初日から思った以上に学校に溶け込めたようで,しゃべれない(しゃべってない)状態でも,それほどそのことを苦にするわけでもなく,すーっと入っていっているようだった.
しかし,この日は,私が夕方に買い物に行って,帰ってきて袋からものを出しているところで,手がすべってワインの瓶を落としてしまい,1時間以上もかけて掃除をする羽目になってしまい,その傍らで,妻の銀行口座の不正使用が発覚して,妻はその対応で悲壮な様子であり,子どもたちは「お腹すいた」と叫んでおり,最悪の状況になってしまった.年に数回,こういった不幸が重なる日というのがあるが,こちらにきて最初のそれが,この日に来てしまった.本当は,ゆっくりと子どもたちに学校の様子を聞きたかったのだけど,夕食が終わる頃には,もうみんなが疲労困憊といった状態で,ともかく,全ては明日といった感じで,その日はもうシャワーを浴びて寝るしかなかった.
しかし,よかったことは,子どもたちが,穏やかな顔で寝てくれたことである.長女も昨日までの不安げな様子が嘘のように,穏やかだった.これが,「もう学校には行きたくない」とかだったら,この日は,さらに悲惨な状況になっていただろう.

4月23日(火),昨夜の衝撃もあって,子どもたちを学校に送っていったが,何か長女のクラスの様子がおかしい.誰もいないのである.向かいの教室の先生と話ができたので聞いてみると,別の学校にあるプールに出かけたとのことである.「あ,しまった! 火曜日はプールだと言われてたわ」と急ぎ帰り,持たせ忘れた水着を用意して,教えてもらった学校名をたよりにグーグルマップを使って走る.徒歩9分とか書いてるけど,これって走って9分の間違いじゃないか.ともあれ,隣の学校に到着.入り口を見つけ中に入るが誰もいない.どこにプールがあるかもわからない.しばらくさまよったが,自分が不審者みたいで,ここで捕まったりしないかと不安になる.ようやく,教室移動する先生を見つけて事情を話し(後で考えると,小学校の先生,ちゃんと英語でやりとりできる.日本ではこのレベルはちょっと無理かもしれない),子どもたちを待たせてプールまで連れて行ってもらった.プールに着いたは着いたで,更衣室の入り口を間違って開けたりすると,女子更衣室だったりしないかと心配したが,えいっと開けたところは男子更衣室で,そこで担任の先生もいたので,水着をわたし,何とか事なきを得た.男の子たちは,「[長女の名前]のお父さんじゃないのか?」などと笑っていた.帰宅後,昨日もらってきたプリントが2枚あって,よく見ると,その日からプールがあることが記されており,また持ち物としてスイミングキャップ(髪の毛が中程度より長い場合は必須)とあった.えっ,もしかして,水着を届けたけど,キャップがないから入れませんとかいうことになってるのか?と脱力したが,後で娘に聞くと,ちゃんと水着をわたしてもらい,プールに入れたそうである.男の子はキャップは付けておらず,自分も髪の毛が短いからよかったのかなと言っていた.他の女の子たちは付けている子が多かったようである.この午後,とりあえずキャップはあった方がよさそうだということで,買ってきた.
朝からバタバタで,疲れてしまった.妻もまだ,銀行口座の件でやり取りしていた.こちらは,何とか出口が見えてきたようである.
昼食で子どもたちが一時帰宅しているときに,荷物が届いた.先週注文していたスクーターだ.すぐに開封して組み立てた.大喜びだ.学校から帰ったら乗りに行こうと言って送り出した.
帰宅後,近くの広場に行って,子どもたちはスクーターに乗ってみた.長女はすぐにかなり自由に乗れるようになったが,次女は今ひとつといった感じだった.しかしともかく,一時間ほど遊び,とても気に入ったようだった.帰宅後,次女の持ち手の位置が少し高すぎたかなということで,少し位置を低くした.また,その翌日,よく見ると,実は前輪がロックされていて自由に動いていなかったことがわかり,ロックを解除した.基本的すぎるミスだったが,次女もこれでちゃんと乗れるようになるだろう.
この日の夜は何も起こらず,穏やかだった.

4月24日(水),この日は学校はお休みで,2回目の補習校である.長女の開始時刻の方が早いので,ランチを補習校近くの公園で食べて,補習校に送った.
この日,補習校から帰ってきた娘たちに,学校と補習校とどっちが楽しい?と聞いてみたら,学校だという.素晴らしい! 補習校は,確かに日本語で何もかも理解できるのだろうけど,お勉強をしないといけない.それに対して,学校は,何やら遊んでいるようで,どちらが楽しいかというと,学校らしい.言葉なんていらない,のだろうか?

4月25日(木),昼食に帰ってきた次女が,「今日はフランス語で歌を歌ったんだよ!」と.長女も「わたしもフランス語で歌を歌ったんだよ!」と.次女は,メロディラインで,次のフレーズがだいたい予想できるので,そのように歌ったら合ってた,みたいなことを言っていて,この子はそういう才能があるのかもしれないと,一瞬,バカ親っぽいことを考えてしまった.長女の方は,保育園の頃に歌ったことがある歌だったようで,すぐに歌えたとのこと.

4月26日(金),傘をさすほどでもないが,朝から雨天.もはや学校に通うのは日常のことになりつつあり,早く早くと言いながらも,何とか送り出す.娘たちも,ごく当たり前のように通うようになった.思い返せば,自分も,中2でミシガンの中学に通ったが,2,3日もすれば,日常のことになったかなと思う.言葉が分からなくても,文句も言わずに学校に通うようになるのは,不思議なことである.
学校は,朝送って行くと,校舎が開く時間まで,長女と次女の教室に近い入り口付近でそれぞれ別に待たされるのだが,長女は身振り手振りでクラスの子と何か話しているようであり,校舎に入るときには,列になって入っていくのだが,他の子たちと同様に,隣の子と手を繋いで入っていく.すっかりやり方には慣れてしまったようだ.子どもの適応というのは,素晴らしいものだなと思う.親が心配するよりも,簡単にやってのける.
昼休みに迎えに行くと,長女が,今日はお勉強したよと言う.フランス語が第2外国語の子たちが集まるクラス(9人らしい)で,みっちりと午前中は勉強したらしい.Je m’appelle … と Je viens du Japon. を習ったらしく,美しい発音で披露してくれた.次女も,今日はお勉強したとのことだった.これは,フランス語はやらないで済ませられればと思っているわたしとは違い,2人とも帰国する頃には,わたしの通訳として,たくましく育ってくれそうである.
夕方帰宅すると,2人とも手紙をもらってきていた.文面は同じものだったが,5月にコンサートに出るらしい.昨日,歌を歌ったと言っていたが,おそらくそのことだろう.日本の自宅では,わたしが,一日中(一晩中)クラシック音楽をかけていて,うちの子たちもピアノを習っているだけのことはあって,音程はかなりいい(もちろん,同学年くらいの子を基準だが).また長女は,妻の発声のよさと滑舌のよさを受け継いでもいて,保育園の年長のときにやった劇では,最も音程の難しい曲を担当したし,1年生の時には,運動会で選手宣誓もやった.5月のコンサートまでにフランス語にどこまで馴染むかわからないが,父としては,すでにかなり期待している.
今日から,ディズニー映画「ウィッシュ」の公開である.夕方帰ってきて,娘たちは早速見ていた.日本では,映画館に2回行き,こちらに来る飛行機でも,それぞれ見ていたように思う.次女よりも長女の方が,これは好きそうだ.
今日は,午後から2週間ぶりくらいに大学に行った.コーヒーを買ってすすりながら,2,3時間ほど.科研費の報告書の仕上げをやった.ついでに,このウェブサイト上の業績のアップデートと.研究はまだできていないが,来週からは,子どもたちのランチもGIAPという団体が提供しているサービスを受けることになり,昼の時間を気にしなくてよくなるので,研究はこれからというところだろう.
ところで,大学のコーヒーだが,コーヒーショップで入れ立てのコーヒーがCHF7.30である.うち,容器代CHF5.00で,容器を返すとこれが戻ってくるという仕組みである.コーヒーそのものはCHF2.30.やや高い感じもするが,まずまずというところだろうか.帰りに返却しようとしたら,4時過ぎだったがすでに閉まっていた.金曜日だからか,いつもそうなのか知らないが,ちょっと早すぎないだろうか.

4月27日(土),妻がジュネーヴ市から離れたニヨンNyonという街で,無料のガイドツアーがあるから行こうということになり,前々日くらいに突如決まったツアーに出かけた.このツアーは,世界各地からジュネーヴにやってくる各国の政府関係者や駐在の人などを対象とした活動などを行う CAGI (le Centre d’Accueil de la Genève Internationale) が主催しているものだった.
ジュネーヴの中心にあるCornavin駅に行き,そこから15分ほど高速電車に乗った.車内からは,レマン湖と,その周辺の景色,レマン湖の向こうのモンブランなどが見え,短時間だがスイスの車窓を楽しんだ.Nyon駅に到着すると,そこから数分歩いてChateau de Nyonに到着した.ここが,ツアーの出発点である.

30~50人くらいが集まっていたが,シャトーの中に入れてもらい,最上階で朝食のレセプションがあった.最初にNyonの市長が挨拶し,コーヒーや飲み物と,クロワッサンなどのパンをいただいた.さすがに各国の「偉い人」という感じで,皆さんカジュアルな服装ではあったが,社交が繰り広げられていた.
シャトーからのルマン湖の景色は絶景で,諏訪湖みたいなものかと思っていたが,はるかに美しかった(諏訪湖の景色って,高台から見るとイオンの赤い看板とかあって,全く興ざめだ).湖自体の美しさ,湖の向こう側に見えるフランスのモンブランや,水でおなじみのエヴィアンまで見通せた.
モンブランが見える
1時間ほどしてツアーが始まり,英語のグループとフランス語のグループに3つくらいに分かれた.Nyon の街の成立(ローマ帝国のこの地の支配から始まって,サヴォイア(サヴォワ)公国の支配下にあったこと)の話を含めながら,各所で説明を聞いた.泉,ルソーの父が一時いたという建物,教会,洗濯場所(ランドリー),旧市街地など,2時間ほどで回った.子どもたちがいたので,集中して話を聞けなかったが,それなりには街のことがわかった.町並みは,ローマ時代の遺跡を一部残しながら,サヴォイア公国時代からの雰囲気を残しており,ヨーロッパの田舎町という感じで,いい街だなと思った.NHKの世界の街歩き番組に出てきそうなところだった.

昼食を付近のビストロでとり,子どもたちは,ツアー途中で見つけた公園で遊びたがったので,ぼくが公園で見ながら,妻はマーケットなどでの買い物に出かけた.

1時間ほどして,頃合いを見て帰路へ.再び,短い時間だが風景を楽しんだ.
帰宅後,子どもたちは,先日買ってもらったスクーターに乗りたいと言いだし,近くの広場に付き合った.

4月28日(日),今日はうちでのんびり.
長女の補習校の宿題をやらせるのがたいへんだ.勉強する習慣,継続して粘り強くやるという習慣がなくなってしまっている.たいした量ではないのだけど,丸一日かかる.なだめたりすかしたりしながら.
日本の補欠選挙の開票結果が昼過ぎから入り始める.予想どおりの展開で,3選挙区で立憲民主党の候補者が早々と当選確実となった.野党はこれを弾みにしたいだろうが,今回については,自民が裏金問題で躓いたことが大きく,野党でなければという2000年代後半のあの勢いがあるかどうかは,まだわからない.日本にいないということもあるが.野党は勝って兜の緒を締めよだと思う.

今週は,何といっても,子どもたちの学校が始まった1週間だった.子どもたちの学校が始まったので,1週間が終わるとさすがに疲れているが,そろそろルーチン生活が始まったという安堵感はある.ルーチン生活というと,否定的なニュアンスもあるが,落ち着いた日々を送れるということは,まずもってよいことである.

今週は,イミグレーション関係は,進まなかった.もう一度行って,指紋を採られたりしに行かないといけないはずだが….とりあえず,連絡待ちだが,来週中には,一度連絡を入れた方がいいのかもしれない.

学校は,なかなか小うるさい.時刻はかなり厳守が求められ,校舎が開くときに,どこで待つということも,徹底される.朝・昼・夕方と,一日3回学校に行くが,今週は,毎日2回平均くらいで何か一言言われ,週後半になると,毎回ビクビクするようになってしまった.実は,登校拒否になりそうなのは,娘たちではなく父である(苦笑) 中越地震の被災地に入ったときに,お世話になった小学校の校長先生から,学校教育は,子どもたちの教育であるが,実は,大人の教育でもあるという趣旨のお話を聞いたことがあるが,今,わたし自身が,スイス・スタンダードを学習させられているのだと思う.日本の学校とはいろんなところが違っていて,時折,こんなんで大丈夫かと思うところもあるが,こっちが,ただダラダラしているのではなく,こちらはこちらの考え方・やり方に従って真面目にやっているのだと思うので,最初からあまりテキトーに対応するのではなく,ある程度,合わせてみようとすることも必要かなと思う.それに慣れた上で,比較したり文句を言ったりすることにしよう.

このところたいへんなのが,ウェブショッピングだ.ドイツやフランスのアマゾンが,使えるカードが限られているために,実質使い物にならないことがわかり,また,スイスでは,いわゆるヤフーショッピングや楽天市場みたいな総合サイトがないので,必要なものに応じてウェブサイトを物色することになる.1つ1つのウェブサイトに癖があるので,なかなか思いどおりの商品にたどり着かないのと,多言語対応になっているとはいえ,英語を選んでいても,遷移した次のページではドイツ語に変わってしまうなど,あまり徹底していない.このように欲しいものを選ぶのに時間がかかるが,欲しいものにいきついても,アマゾン同様,使えるクレジットカードと使えないクレジットカードがあったり,また,あっちのサイトではこれは使えてあれは使えないが,こっちのサイトではこれもあれも使えないとか,サイトにカードの登録はできても,いざ使おうとしたらはねられるとか,どういう規則性があるのかもわからず,とにかくさっと行かないので,消耗する.日本では,基本アマゾンユーザーだったが,アマゾンの楽さを痛感した.とりあえず,先週のスピーカーに続き,家で使用するためのモニターを何とか注文した.

追記:

学校の登下校および昼食時間帯には,学校周辺の交差点に黄色とオレンジ色のベストを着た人が来て交通整理する.ある日,家の前の交差点を,わたしが手を繋いで娘2人とわたったら,呼び止められて,(言葉が分からないので詳細は分からないが),自分が車の制止をするまでわたってはいけないということが言いたいようだった.日本だと,親がいればそういうことを言われることはないが,かなり徹底しているようである.これも小さなカルチャーショックだ.細かいレベルで常識が決まっている.その細かい違いが集まって,独特の文化となるのだろうななどと考えた.
ところで,このベストを着ている人たち,子どもたちを昼食に連れて行くGIAPの人たちの出で立ちと似ている(同じ?)なので,彼らは昼食に連れて行くだけでなく,それに関わるさまざまな業務を請け負っているのかもしれない.
そうだとすると,彼らは,日本のPTAの見回りといったボランティアではなく,かなりプロ意識を持ってやっている人たちなのかもしれない.だから,自分が来るまでわたってはいけないなどと言われたのかもしれない.

在外研究 in スイス…第2週(4月15日~21日)

4月15日(月),妻が,この日から,妻が午前シフト,私が午後シフトということにする,ということで,まだ日も昇らないうちから大学に出かけた.私は,適当に起きて,子どもたちの朝ご飯をした.そのうち,備え付け家具の修理が来たりしているうちに,妻帰宅.
しかし,どうも私が先日送ったイミグレーション関係の書類の提出に不備があった(必要なものを送っていなかった)ようで,午後の私のシフトは,もっぱら大学の秘書さんに相談したりする時間になってしまった.
われわれが日本で得られていたのは,言ってみれば,暫定的な滞在許可証であって,入国後2週間以内に,OCPM (Cantonal Population and Migration Office: https://www.ge.ch/organisation/office-cantonal-population-migrations-ocpm) に住所を確定したことなどを記した書類を提出しなければならないことになっている.正式な滞在許可証が出ないと,不法滞在になってしまう可能性もあり,また,子どもたちの学校への入学許可も得られない可能性がある.結局,秘書さんには一度OCPMに直に足を運んでみるのがよいのではないかとアドバイスされた.ただ,この日は時すでに遅しで,翌日に行くことにした.

4月16日(火),朝から気持ちが落ち着かない.イミグレーション関係というのは,アメリカの時もそうだが,最も緊張するし,最も生きたくない役所の1つだ.そもそも,必要書類が揃いきっていない.パスポートにある入国印のコピーが必要とのことだが,われわれ一家4人の誰のパスポートにも入国印が押されていないのだ.いったい,これで受け付けてもらえるのだろうか.昨日の大学の秘書さんは,説明すれば大丈夫だよと言ってくれたが,イミグレーション関係は,下手すると不法入国なんてことにされはしないかと,ビクビクだ.
それから,細かいことだが,コピーを取るということが,やって来たばかりの人間には,意外に困難なタスクである.どこにコピー機があるのか? 日本だと,どこのコンビニにも置いている感じだが,どうもそうではない.大学のプリンター兼コピー機も,研究用なら無料で使えるが,私的な利用はお金をチャージしないといけないとのこと.しかし,イミグレーション関係は,研究用と言えるだろうか? とか考えると,もう,大学に行くのも面倒.結局,実物だけ持って,そこで指示に従うことにした.
午前遅く,OCPMに到着.数人のラインに並び,自分の番が来て状況を説明.まず,先日,この書類は郵送したが,同封しなかったものがあるのだがどうしたらよいかと.それについては,コピーして,まとめてあそこにあるポストに投函すればよいと.コピー機は,10分ほど歩いたMigros(スーパー)にあると.次に,実は,パスポートに入国印が押されていないのだがどうしたらよいのかと.それについては,あってはいけないことだけど,時々あるから,その旨どこかに書いておけばよいと.それから,2週間のうちに手続きを済ませないといけないようだけど,これでよいのかと.それについては,投函まで終わればそれでよいと.
というわけで,大ごとにはならずにすみそうで,少しほっとした.10分ほど歩いたMigrosの入っている建物の奥に,Migrosが出している日本で言えばKinkosみたいなところがあって,そこで,カラーコピー8枚,白黒コピー2枚,USBメモリーから白黒印刷4枚で,CHF10.80もした.A4サイズのカラーコピーが1枚CHF1らしい.日本では考えられない.やっぱり,安いプリンター(コピーもできるやつ)をうちに備えた方がよい.封筒は,売っていなかった.
OCPMに戻って,いくつか説明書きを加えた.念のため,再度ラインに並んで,一式持ってきたけど,これをそこのポストに出せばいいのねと確認し,このあとどうなるの?と聞いたら,しばらくアポイントメントの連絡が来るまで待てとのことだった.大学の秘書さんからは,biometricsの情報を取られると聞いていた.見ると,おそらく指紋を採ったり顔写真を撮ったりするところがありそうだったので,また呼ばれて,そういうことをしに来ることになるのだろう.
というわけで,書類の提出自体は,何とか2週間以内に済ますことができたが,まだもう1回はここに来ないといけないらしい.
ともかく,イミグレーション関係は,精神的に疲れる.アメリカに行くときには,大阪の領事館あたりで済むので,まだ出国前なので気分的に楽だが,一度来てしまってから,最終的な手続きが必要というスイスは,緊張感が違いすぎる.
まあしかし,そんなに態度がでかいとかいうことでもなかったので,威圧感が大きくなかったところはよかったかな.とにかく,もうしばらく様子見である.
ちなみに,午前中に,テレビのリモコンの交換が終わった.ようやく,テレビを見ることができるようになった.

4月17日(水),午後から子どもたちの初めての補習校登校.建物自体は,そのあたりにある建物の1つというくらい目立たないもの.学校とはいえ,グランドもないし,外見からは,それとは気づかない.

ところで,学校名は,「ジュネーブ日本語補習学校 Ecole Japonaise Complementaire de Geneve」となっている.海外の日本人向けの学校は,「日本人学校」などと呼び慣わされているが,「日本人」ではなく「日本語」である.

実際,うちの子どもたち(新小2,年長)の科目を見ると,国語と算数の勉強をするところであって,その他の科目はなさそうである.週に1日だけなので,こういう選択になるのだろう.
授業は,午後から.長女が13:45から,次女が15:20からである.最初なので,時刻の少し前に長女の教室までみんなで行って新小2の長女を送り届けた.10数人程度で,これが2クラス分だという.少人数で,なかなか行き届いた感じの教育が望めそうだと思われた.顔ぶれを見ると,純日本人的な顔をしている子もいれば,いわゆるハーフだなという子もいる.机には名札が貼ってあって,(おそらく)国籍が日本の子はひらがなで,スイスか日本以外の国籍の子はカタカナで,名前が書いてあった.名前は,名字は小さく,下の名前は大きく書かれていた.後ほど長女に聞いたところだと,下の名前+さん で呼ばれるらしい.長女のいたN市の小学校だと,1年生から名字+さん だったので,やはり,ここは,西洋(スイス)にある程度合わせながら,教育が行われるのだなと感じられた.
しばらく次女を遊ばせたり,その日は傘を差すほどでもないが時折小雨が降るなど寒かったのでカフェに行ったりして時間を潰してから,次女のクラスに行ってみた.スイスでは,日本でいう年中から義務教育期間ということになるので,日本人学校もそれに合わせる形で,年中以上のクラスが設けられている(ようである).こちらのクラスは,10人程度だろうか.1クラスのようだ.しばらく様子を見ようとしていると,入学式をするので父兄もご一緒にとのこと.「あれ? もしかして,長女の方も入学式があったのか?」(後から長女に聞いたらあったらしい.)小学校の1年生と,年中だけが入学式の対象かと思っていたのだが,そうではなかったらしい.ともあれ,次女の入学式に参加.わずか10名ほどだが,やはりいろんな生い立ちの子がいるようだった.次女のクラスには,長女と同じ名前の子がいたり,長女と似た名前の子がいたりということもわかった.なかなか紛らわしい.
しばらく妻と付近のお店を探索.その近辺は,大学の近辺でもあり,すでに妻はかなり周辺のお店のことはよく知っているようだった.セコハンのお店が何軒もあり,スイス生活をうまくやっていくためには,セコハンをどうやって取り入れながらやっていくかというところもあるのかなと,妻に説得された.
結構よい蔵書の本屋さんもあった.社会学関係のコーナーも充実しており,特に理論社会学系の本の充実度が圧倒的だった.英書もあったが,ほとんどは仏書だった.背表紙の印象からは,硬派なものが多く,日本の社会学コーナーなどに見られるような,多くは教科書・入門書とか,今流行の領域や今もてはやされている著者に侵食されているという感じではなく,これが全体像であるという感じだった.
お迎えに行くと,長女はすっかり楽しんでいたようで,先生からも,あまり緊張せずよく頑張っていたと言ってもらえ,次女も,自分の名前が書けるようになりました,とのことだった(最初の文字の形が,少し難しい).うちに帰って書いてみると,まあ,書き順とかはともかく,何となくそれらしい感じにはなっているかなと思われた.
そういうわけで,それぞれが期待感を持って補習校に出かけたが,それなりに楽しかったようで,これからも嫌がらずに通ってくれそうだ.
ところで,放課後,これまでも在籍していた父兄から,情報交換のためのSNSグループに参加してくださいということだった.しかし,海外でLINEてのは,使えないのね.年齢確認とかいう画面が出てきて,日本のメジャーなキャリアでないと,確認ができないという仕組みになっているらしい.海外のSIMを入れていると,ここで引っかかってしまって先に進まない.以前からLINE嫌いでほとんど使わなかったので,操作も対応も分からず,退散.とりあえず,妻のLINEが何とかつながったようで,とりあえず事なきを得た.LINEはますます嫌いになった.これが一方のクラス.もう一方の方は,ヨーロッパで主流のWhatsAppを使うということだった.
帰宅後,2,3日が経過.次女の方は宿題は少ないし,簡単で,金曜日には終わってしまったが,長女の方は,3学期終了後,引越準備や何やで,勉強する習慣が全くなくなってしまい,毎日コツコツやることができなくなっている.何とか毎日の音読あたりから癖を付け直さないといけない.

4月18日(木),この日は,一昨日と反対で,妻が朝からピリピリしている.16時から,大学のウェルカム・センターの人に通訳に入ってもらい,娘たちの現地校(公立学校)の面接に行くことになっている.
いくつか懸案事項がある.まず,いつから学校に通えるのか.そのために,滞在許可証が正式に降りないとダメと言われないだろうか? また,予防接種などを含めて,健康状態について,何か学校側からの要求があって,そういった要件を満たすように求められ,さらに学校に行けるまでの日数がかかってしまうのではないか? その他,細かいことがいろいろある.
こういったことを,大学のウェルカム・センターの人を仲立ちとして,学校とやり取りをしていたのだが,予想不能なところがあり,妻はかなり緊張していた.
予定時刻に,学校でウェルカム・センターの人と落ち合い,学校の校長室へ.ウェルカム・センターの人にフランス語と英語の通訳をしてもらいながら,一通りの説明を聞いた.
端的に言えば,あっさりと,そう,予想していたよりもあっさりと,今度の月曜日から学校に通えることになった.いろいろなものは学校から支給され,揃える必要があるのは,上履き,体操服(指定のものがあるわけではない),水着など,わずか.公教育はしっかりしているなという印象である.
学校は,月・火・木・金の週4日.水曜日はお休みで,この日に補習校に行くことになるというわけだ.また,この4日間の昼食については,うちに帰って食べてもよいし,業者が提供する昼食サービスを受けてもよいということで,これを早急に決める必要があるとのことだった.計算してみると,昼食費2人分とサービスに関わる人件費などで,手元の計算では,月々370フラン(6万3千円)くらいになる模様.なかなかな金額である.
長女のクラスルームに行き,担任の先生と少し話をすることもできた.クラスに一人,日系のハーフの子がいて,多少の日本語はしゃべれるらしいとのことだった.長女は,一応英語の学校にも入れていたし,担任は英語は話せるようなので,少し安心かな.次女の方は,クラスルームには行ってみたが,担任2人(週2日ずつらしい)は不在だった.
校長先生は,これまでも娘たちが校庭で遊んでいる様子を観察していたよう(そう言われれば,校長先生を見かけたこともあるように思う)で,学校の他の子たちが遊んでいても,物怖じせずに遊んでいる姿を見て,やっていけるのではないかとの見立てだった.
そういうわけで,事前の心配事項はおおかた払拭された感じではある.始まったら始まったで,またいろいろ出てくるのだろうけど,とりあえず一安心.週末までに必要なものを買いそろえないといけない.驚きなのは,まだ4月だというのに,長女の方は,もう水泳が始まるそうである.水泳は,学校内ではなく,近くの別の学校に行ってプールを借りるのだそうだ.学校の中に全てが揃っているわけではないというのも,日本とは違うなと思う.

4月19日(金),午前中,妻は早朝から出かけていき,朝,子どもたちの朝食を作るのは,すっかり日課となってきた.来週から子どもたちの学校が始まることになり,補習校の宿題をさせつつ,勉強するモードにしていかなければならない.次女は日本で言えば年長で,こちらでは年中スタートなので,まあぼちぼちやればいいかなという感じだが,長女は,長すぎる春休みで,タブレットでマンガを読んだり,どう見てもだらけた感じになっている.次女については,補習校の宿題を終わらせたが,長女の方は,何とか毎日の音読が軌道に乗り始めたが,まだ手つかずの宿題もある.週末のうちに,全部終わらせないといけない.
さて,国語の音読の課題になっている「ふきのとう」という文章だが,「○○(長女の名),ふきのとうって知ってる?」と聞いてみたら,知らないという.日本にいれば,じゃあ,近くの甲山にでも行ってあるかどうか見に行こうか,となるのだけど,はて,スイスでふきのとうはあるのだろうか? そんな疑問から旧Twitterにつぶやいたら,早速,スイス在住の日本人が書いたと思われるブログ記事を見つけてもらい,山に入ればふきのとうがあることはわかった.しかし,どの山に? そして,どうやって山に行くのか? この一年,とにかく物価の高いこの国で,車を買うのだけはやめておこう(実際,路面電車網の発達しているここジュネーヴで,特に車を買う理由は,ことさらにないように思う)と思うので,山への機動性は,どうしても難しく優先順位も低くなってしまう.ふきのとう探索問題は,なかなか解決しようもない.長女には,天ぷらにするとおいしいんだよと言ってみたが,すぐに,気持ち悪いと言われて,口をつぐんでしまった父であった.帰国したら,信州に山菜ツアーに是非連れて行くぞと心に誓う父であった.ともかく,明日土曜日,近くのマーケットにふきのとうがないかどうか,見に行ってみようとは思う.
さらに「ふきのとう」についてだが,補習校では,役割に分けて,来週これを演じるのだそうだ.というわけで,「パパ,ふきのとうごっこやろう」と言われ,次女も巻き込んで,役割を変えながら,ふきのとうごっこを何セットかやった.ベッドで,枕を雪に見立てて,そこからふきのとうが顔を出すというベタな芝居だが,やってみると,けっこう面白い.とりあえず,ふきのとうとは,春になると,もっこり顔を出すやつということで,いいんじゃないかと思う.おいしいかどうかは,また帰国後だ.
昼からは,必要そうなPCの周辺機器などを見に行ってきた.やはりうちにスキャナ付きのプリンタがいるかなとか,実はこちらに来てから自宅で音楽を全く聴いていないので,スピーカーくらいはあっていいんじゃないかなとか,子どもたちがアニメーションを見るのにPCを占拠してしまうとアレなので,何か対応した方がいいかなとか,あまり練習好きではなかったが,ピアノがないのがさびしくなってきている子どもたち(ぼくもそうかな)にキーボードでも買った方がいいかなとか,いろいろ.ひとまず,プリンタだけでも何とかすることにした.
帰りに道に,H&Mに寄って,ズボンを2本買った.スーツケースに入れてきたつもりのものが入っていなくて,さすがにズボン1本でやっていくこともできないだろうと観念して.こちらに来てから食生活が改善して何キロか減ったので,ウェストサイズも1つ小さくなった.どういうわけか長さも適当で裾を切ったりせずにすんだ.あれ?おいら,脚長かったっけ? いや,そんなことはない.
自転車に乗れない子どもたちも,こないだおもちゃ屋さんでキックボードを試したら行けそうだったので,夕方にネットで注文してみた.初のネットでのお買い物.スイスはアマゾンがない(! 入国前に分かってはいたが,びっくりである)ので,とりあえず安くてそれなりに信用できそうなところ(一応,Trusted Shops 認証に対応しているところ)に注文した.

4月20日(土),午前中,妻は,住んでいるCarougeの街のツアーがあるということで,長女と出かけていった.私は,次女とマーケットに行き,ふきのとう(Pétasite)がないかどうか確かめてみた.やはりなかった.少し歩いていると,ツアーの出発のあたりにまだ妻がいたので,少しだけ一緒に回ることにした.
最初の数分だったが,Carougeの市長の決め方というのが面白かった.詳細はこちらだが,市長は[4/25修正]もちろん選挙で選ばれるのだが,1人ではなく議会議員33人の中から3人がCouncilとして選ばれるのだそうだ.そして,その3人が1年ずつ交代で市長を務めるとのこと.そんな方法があるのかと,驚いた.しかし,それは,なかなかよいシステムかもしれないとも考えた.まず,1人が数年務めると,政策としてはその党派的なバイアスが強くかかることになる.他方,3人が選ばれると,その3人は,それぞれの主張を持っており,それぞれの支持者たちから支持されているのだろう.最初の1年は,そのうちの1人の主張に従った政策が進める.しかし1年だけである.次の1年は,その次の人の主張に従って政策が進められる.そしてまた1年すると,次の人の政策となる.こうして,それぞれは党派性がありつつも,極端にいずれかの党派性に傾くことなく,平均的には中道近辺を周ることになる.また,それぞれの支持者たちにとっても,ある程度納得のいく政策が進められることから,それが3人分となれば,政治全体に納得できる人々の割合も大きくなると思われる.民主主義のあり方として,1つの工夫の仕方だと思われた.
さて,午後は,子どもたちが学校に行くための準備をしなければならない.また,予約しておいたプリンタを取りに行かないといけない.ということで,街へ.最初に何軒かめぼしいお店に寄って買い物.そして昨日のPCショップに.思ったより箱が大きかったので,ぼくはとりあえずここで別れて先に帰り,プリンタのセットアップをすることにし,後の買い物は妻に任せた.
夜に,長女がなかなか寝つかなかったのだが,かなり経ってから,学校に行くことについて不安を漏らした.ああ,何か落ち着かなかったのは,こういうことだったのか.気づいてやれなかった.

4月21日(日),午前中は,妻のPCとプリンタをつなげる作業など.子どもたちは,補習校の宿題をだいたい終わらせた(毎日の音読などは除く).長女には結構大量の宿題が出ていて,私は気づかなかったが,親向けの指示が学校からTeamsを通じて出ていたらしく,妻が気づいて対応してくれた.
昼からは,安めのアクティブ・スピーカーを買おうかとドイツ・アマゾンとフランス・アマゾンに登録してやり始めた.扱っている商品や値段はほぼ同じようだが,各アマゾンで在庫状況は違うようだ.また,地元の家電店などで買うよりも,送料はかかってもやや安めの価格設定になっているし,選択肢も多い(最新のものも多い)ようで,それも魅力的である.ところが,支払い段階になって大きな壁が.日本のクレジットカードやデビットカードが使えないのだ.ドイツ側ではダメそうでも,フランス側では登録できた(しかし,その商品が来るのがずっと遅くなるから,フランス側で注文するのは避けたい).しかし,そうこうしているうちに,なぜかドイツ側でも,使えなかったデビットカードが登録できた.ところが,それで買おうとすると,これまでになかった奇妙なアクティビティが検出されたとかいうことで,アカウントが凍結されてしまい,それを解除するために,名前・現住所・デビットカードの現住所付近における使用実績を示す書類の提示を求められた.何とかそれらしい書類を3つほど集めて,書類をアップし,凍結は解除された.さて,いよいよものを買ったと思ったら,通常日本のアマゾンでは届くはずの購買の記録が届かない.それで,再度見てみると,その商品が買えていないことが分かり,さらに,やはりデビットカードがドイツ側もフランス側も登録が消えていた.そこで,再び,デビットカードを登録しようとしたが,できず,そのうちトライの制限回数に達してしまい万事休す.カスタマー・サービスに要望を出して,検証してもらえることになったが,いかんせん制限回数に達してしまったので,24時間は動かしようがない.というわけで,午後が,まるまる潰れてしまった.生産性ゼロ.ただただ,消耗しがっくりきた.しかし,カスタマー・サービスは,不便についての丁寧なお詫びと,前向きな対応をするという内容だったので,とりあえず少し日数はかかっても進めていきたい.やはり,少しでも安くよいものを入手するためには,アマゾンは必要だろう.これからまだ一年もあるのだから.
夜,やはり長女が不安定で,学校のことが心配らしい.ぼくが中2で体験した学校に行き始めた頃の記憶を呼び起こしながら,こんなこともあったけど,何とかなるからと諭しながら寝かせつけた.

この1週間は,イミグレーション関係,子どもたちの学校の準備など,煩雑だが重要な事柄をインテンシブに進めた.濃密な1週間だった.
イミグレーション関係は,まだ次の案内は来ていないが,来週あたりには何かまた反応があるだろう.
長女が学校に行くのを,ここにきてとても不安に思っているようで,来週は少ししっかりと見てやらないといけない.
大学には,あまり行けていない.ともかく,イミグレーション関係のかたが付き,子どもたちが学校に通うようになってくれないと,何もできない感じである.今度の1週間でおおかた片付かないかなと期待している.

追記:

こちらの食器洗剤は,泡立たないので,何か頼りない感じがする.しかし,これでよいのかもしれない.実は,日本の自宅で,一度食洗機が壊れてしまったことがあり修理に来てもらったことがある.そのとき修理の人から言われたのは,食器を洗って泡だったまま投入していませんか?ということだった.心当たりがあった.泡だったままの状態で食洗機をかけると,水流が悪くなるか何かで,それが故障の原因になるとのことだった.こちらの洗剤,全く泡立たないが,ざっと仮洗いした後で食洗機をかけることを前提にした仕様なのかもしれない.

在外研究 in スイス…最初の10日間

4月3日(水),夕方まで荷造りに追われ,タクシーで西宮北口駅(タクシーに荷物が積みきれず,ぼくは電車で駅に)に,そしてそこから空港バスで関空に,数時間のラウンジ滞在のあと,エミレーツでドバイ経由(ドバイでは,娘たちが喧嘩して,妻も私も荷物の受け取りで荷物を取り忘れる小さなアクシデント…どちらも無事にあったが),ジュネーヴにやってきた.ほぼ丸一日かかり,着いたのは現地の4月4日(木)の昼.自分の携帯と空港のWi-Fiがうまくつながらず,アパートへの連絡がうまくいかず,着いてから入室できるまでにしばらく待つなど,疲労困憊.それでも,妻と長女は,近くのスーパーに買い出しに出かけた.

4月5日(金),家の中の片付けや,買い出しなど.また,とにかくケータイの通信を確保しないとということで,スイス第3位(らしい…日本だとソフトバンク的な立ち位置の)Saltにて契約.プリペイド式と月決めで迷ったが,やや割高ながら,しばしばヨーロッパに越境することを予想して,月決め,スイス国内・欧州内でフリーコール・無制限のWi-Fiということで,月々CHF49.まあ,仕方ないところか.同じ建物に入っているスーパーCOOPで,近くのスーパーではないものを購入.夕方は,近くの公園で遊ぶ.夜は,テザリングのやり方がうまくいかず,時間を取られた.もしかすると,オフィシャルな接続法とは違うかもしれないが,まあいいや.

4月6日(土),近くでマーケットが開催される日ということで,マーケットに出かけた.主に食料品などが売られている.近くのスーパーの野菜は,鮮度が今ひとつのものもあるが,ここでブロッコリーやキノコを何種類か購入.ただ,ブロッコリーは硬めで,子どもたちからは今ひとつ不評.キノコはおいしかった.マーケットの値段は,スーパーよりは高め.その後,前日も行った近くの公園に次女と遊びに行く.

4月7日(日),うちは,ジュネーヴの郊外だが,周りの店は,多くが閉店.スーパーも閉まっている.とりあえず,ジュネーヴの街中に行ってみた.そこでは,マーケットが出ており,ちょっとした遊園地もあった.冴えない感じのところではあったが,子どもたちは,いくつかのアトラクションで遊んだ.お昼をその近くのカフェで食べた.ともあれ,日曜日は,かなりのお店が休みになるので,事前の買い込みが必要ということがわかった.この日まで,この日以降も,近くのスーパーMigrosや,少し離れたCOOPには毎日のように行っている.我が家の冷蔵庫である.

4月8日(月),実はまだところによっては,イースター休暇中らしい(うちの娘たちが通う学校もそうである)が,大学の秘書さんからは,この日に時間を取りましょうと言ってもらい,午前中から出かけた.挨拶をし,オフィスに案内してもらった.オフィスは私と妻を含めて4人で共用するとのことだった.建物の最上階なので,周囲にも同じくらいの高さの建物があるが,若干見通しはある.とりあえず,娘たちが学校に通い始めたら,ここに通うことになるのだろう.
その後,アパートのオフィス(居住しているアパートとは別のところにある)に行って,いくつか用事を済ませた.
  

4月9日(火),大学でネットワークの設定などをやってもらう段取りが付かず,天気もよくなくて,この日は,トラムの年間パスを買ったり,家の中で過ごす.娘たちが通う学校の校庭で遊んでよいらしいことがわかったので,天気が回復した夕方に行ってみた.初めて見る遊具で,楽しそうに遊んだ.これから毎日のように,少しずつ遊ぶようになった.

4月10日(水),大学でEric Widmerと十数年ぶりに再会.彼も現在半年間のサバティカル中で,ヨーロッパ各地を駆けずり回っているようだった.この日と翌日だけジュネーヴに帰ってきていて,その合間に会うことができた.図書館を案内してもらった.今,試験期間中とのことで,学生たちが黙々と勉強していた.大学のそばのカフェで少し話をした.ジュネーヴ大学では,半年間のサバティカルだとフルの給与だが,1年間取ると半額になるのだとか.どこもなかなか厳しいようだ.社会科学関係が入っているこの建物内には,カフェが2か所あるが,結構高いので,ランチを持ってきた方がよいとアドバイスを受けた.
Ericと会う前に,研究室のネットワークの配線などをしてもらい,いよいよ研究できる環境は整った.モニターなどももらえた.問題は,メール環境がマイクロソフト系のシステムになっており,どうも,自分のメールソフトは,許可してもらえなさそうだということ.セキュリティは厳しめなのかなという印象.目下の問題は,娘たちがいつから学校に通えるかだ.そうしないと,落ち着いて研究できない.

4月11日(木),イミグレーション関係の書類を送る作業をやらねばならず,一旦大学によって,秘書さんに内容を確認・印刷してもらい,自分たちで署名して,郵便局に出しに行った.封筒1通送るのにCHF1.80.日本では84円だと思うと,3倍以上する.高いなと思いながらも,逆に日本の郵便が安すぎるんだなと思う.
その後,長女のトラムの年間パス(大人料金からの割引率は大きい)を購入し,その近くの公園で遊ぶ.やはり,初めて行く公園は,新しい遊具と出会えるし,楽しそうだった.大人がエクササイズするための遊具(決してジムにあるようなやつではないが)もあった.

4月12日(金),そろそろ生活も整ってきたので,少し遠出して,ルマン湖畔沿いの公園に行ってみた.湖畔の公園にはチューリップが咲いており,海岸には白鳥もいて,気の早い子どもたちは,水に入っているのもいた.うちの子も,裸足になって膝まくりして,少し水の感触を楽しんだ.
 

4月13日(土),そろそろ国境を越えてフランスに行ってみようということになり,買い物とランチを兼ねて行ってみた.国境は,ここが国境なのか,という感じで,特に何か仰々しい施設があるわけではなく,この小さな川を越えるとフランスなのかな?というくらい,どこに国境があるのかもわからないようなところだった.しかし,国境を越えると,お店はユーロ表示になっているし,心なしか,ジュネーヴの街中に比べると,のんびりしている感じだった.子どもたちを公園で遊ばせて,妻は買い物に出かけた.公園の施設は手作り感に溢れており,ここでもジュネーヴの公園とは違うなと感じられた.
国境

4月14日(日),到着してから丸々10日間が経過したことになる.一昨日の湖畔で泳ぎたいという長女の声に応えて,昼過ぎから湖畔の公園に.水着を着て水浴びを楽しんだ.最初はためらっていた次女も,やっぱり入ると言い,水着で少し楽しんだ.数時間いたので,結構日焼けしたかな.

ここまで,日々の暮らしでたいへんなのは,まず,洗濯.一家4人なので,2,3日に1回は洗濯しないといけない.日本にいたときは毎日だったので,回数は減ってはいる.しかし,家の中に洗濯機がなく,共用の洗濯機と乾燥機を使わなければならないのだが,このアパート50軒くらいもあり,満杯状態らしく,それでそんなに大きくない洗濯機2台,乾燥機2台をシェアしているのだ.そういうわけで,深夜(たとえば0時過ぎ)か早朝(たとえば5時),2台同時に使いながら,洗濯に1時間,入れ替えて,乾燥に1時間半と,なかなかしんどい.よそがどうしているのかは知らないけど,あんまり洗濯には頓着しないのか,手洗いをしているのか,ここの人たちの習性はまだわからない.

イースターの時期の関係で,これを書いている4月15日(月)の時点で,まだ子どもたちは学校に行けていない.大学を通じて公立の学校と交渉をしてもらってはいるが,今週中に行き始めることができるだろうか? 来週かもしれない.一応,日本人向けの補習校は,この水曜日から始まる予定だ.ともかく,それまで子どもたちがうちにいるので,およそ研究は進まない.暮らしに追われている感じである.もう少しの辛抱かな.

追記:

日本を出る頃から,花粉症なのか風邪なのか分からないが,今ひとつ調子が悪い,最初は喉,その後は鼻と症状が移ってきていることからすると風邪かな.なので,においに関しては,今ひとつよくわからない.子どもたちは,ところどころで,日本では嗅がないようなにおいを感じているようだが.早く本調子に戻ってほしい.

トイレについて.やはり,日本ウォッシュレットに馴染んでいると,海外生活は辛い.ここに来てから一度出血して,辛いときがあった.日本から軟膏を持ってくることは忘れていなかったので,症状は長引かずにすんだ.これからも何度もあるんだろうなと思うと,日本に帰りたいと思う.ちなみに,7年前のサバティカルの時には,日本人のホストファミリー宅に居候させてもらったので,ウォッシュレット完備で,ほぼ日本的な生活が送れていた.あれは,幸せだったと思う.

こちらに来て,テレビが見られていない.テレビはあるのだが,リモコンがダメ.ボリュームが上がるが下がらない.本体にもボリュームがない.アパートにリモコンを交換してくれるように頼んでいるが,数日間,なしのつぶて.こちらでどういうニュースをやっているのか分からないのが難.

うちにいい椅子といいベッドがない.椅子のクッションがイマイチだし,ベッドは柔らかい.腰が慢性的に痛くて困っている.

在外研究 in スイス…出国前のさまざまな混乱について

本務校の計らいで1年間の在外研究が取れることになり,2024年4月から1年間,スイスのジュネーヴ大学に行けることになりました.4月3日に日本を発ち,4日にジュネーヴに到着しました.これからどれだけの頻度で更新できるかはわかりませんが,なるべくその様子を記録しておきたいと思います.Facebookでは,もう少し私生活的なところも公開するかもしれませんが,ここでは,そういったことは,やや控えめになることでしょう.

在外研究に至るまでの若干の経緯を説明すると,時は遡って30年ほど前の私のUC Irvine留学時,スイスのジュネーヴ大学でPh.D.をとり,UCIに来ていたポスドクのEric Widmerに出会ったのでした.彼は当時,私が開発しようとしていたネットワークの並べ替え検定(permutation test)のプログラム(1998年頃に,一応,PermNetというプログラムとして世に出した)や,私が当時取り組んでいた人々の信頼についての研究にコメントをくれたりと,アカデミックな交流があったのはもちろんですが,彼のホームパーティに誘ってもらうなど,私生活での交流もありました.

彼とは,その後,2010年にイタリアのガルダ湖畔で開催された,社会ネットワークの国際会議Sunbelt会議で出会ったり,細々とではありますが,交流を保ってきていました.
そんな中,在外研究を取れることになったのでした.

とはいえ,近畿大学での在外研究の学内手続きは,遅々としたものでした.妻(関西学院社会学部教員)は,早々と2年ほど前にサバティカルを認めてもらい,それ以降は,新規ゼミの募集も行わないといった待遇だったのですが,近大では,在外研究の募集が出るのが,前年の5月,ようやく学部内で候補となるのが8月から9月頃で,理事長決裁が出たのは,12月下旬(それも,ジュネーヴ大学側から,もうこれ以上待てないと言われて,急ぎ決済してもらった)でした.スイス側は,滞在許可が出るのに最低8週間はかかるとのことで,アパート探しは,事実上それ以降でないと難しいとのことだったので,在外研究に出るまでの1年間ほどは,薄氷を踏む思いで何とか在外研究にこぎ着けたという感じでした.もっと言うと,在外研究前の1年は,3年ゼミを持っていたので,それを解体して,専攻の他の先生方に振り分けないといけないという苦渋の決断もありました.(私のゼミは比較的少人数だったので,まだ振り分けは容易だったとは思いますが,ゼミ生が多い場合は,よりたいへんなことになるだろうと想像されます.)

近畿大学には,自分と他の先生方から事情聴取して,よりよい在外研究にむけてのスケジュールのあり方を,在外研究後に提案する文章を書こうと思っています.みんなが,薄氷を踏む思いをせずにすむように.

ともあれ,事前に,なかなか直前まで決済が降りないようだということは分かっていたので,全く知らない人や,学会でちょっと出会った人などには,在外研究の受け入れをお願いすることは難しいことは承知していました.そのため,いろいろと考えた結果,Eric Widmerにお願いしたのです.お願いの連絡を始めたのは,1年半ほど前でした.Zoomで何度か話をしました.このあたりは,コロナ禍で身につけたコミュニケーション手段が活かされたと言えるでしょう.その頃,妻は,すでに在外研究を得ることが決まっていましたが,私はまだ全く何の保証もない時期でした.ぼちぼち感触を探りながら,少しずつ進めていきました.前年5月頃には,ジュネーヴ大学では受け入れの決済が降りていたので,まだ学部での募集開始ごろというタイミングでしたが,ここで何としてでも実現しないと信義に関わることなので,慎重かつ大胆に決めていく必要がありました.

しかし,そろそろ理事長決裁かというタイミングで,国会でいわゆる「裏金問題」が発覚し,その理事長が矢面に立たされるという状況になり,12月頃は,毎日がドキドキでした.しかも,12月中旬になると,とにかくスイスがクリスマス休暇に入ってしまう前に,決済が降りないと,4月からの在外研究開始は事実上難しいなどと言われ,非常に落ち着かない日々でした.

年が明けると,なかなか降りないスイスでの滞在許可で気を揉みました.かなり最速でやってもらえたようで,2月下旬になるかと思っていた許可が,1月下旬頃に降りました.しかし,その後は,アパート探しはスムーズにはいかず,2件ほどのエージェントと大学のウェルカム・センターの3方向から探してもらい,ようやく2月下旬に今のアパートとコンタクトを始め,3月上旬に決まるというような感じでした.

アパートが決まると,子どもたちの学校も決めていく必要がありました.これについては,遡って,妻が昨年9月に現地視察に行き,2つのインターナショナルスクールを見学に行ったりしましたが,何せ非常に高額(円安も手伝って,2人で1年間1千万円くらいとのこと)なので,公立の学校に入れることにしました.その旨ウェルカム・センターに伝え,ウェルカム・センターから手続きをお願いしている状態です.ちなみに公立学校だと,学費という点では無料です.もちろん,諸経費はかかりますが.

円安の影響は大きかったです.日銀がなかなかゼロ金利政策を解除しないことや,ウクライナでの戦争のため,スイスフランがおそらく安全通貨と思われていることもあって,対ユーロでもフランが高騰するという事態になりました.そのため,現地に着いてからものを買うのではなく,考えられるだけのものを日本で買って送ってしまおうということになり,妻はいろいろなものを買い集めていました.実際,これは本当にうまく当たって,妻の段取りの良さに脱帽といったところです.持つべきものは,賢い妻ですね.(逆に,妻の私に対する評価は,下がる一方のようではありますが…情けない.)それにしても,今,郵便局から荷物を送るときには,中身について一つ一つ申請書を書かないといけないのです.素材が何かとかも.そのため,説明が難しそうなものについては諦めざるを得ず,洋服など簡単なものにとどめざるを得ませんでした.これもみな,妻が事実上やってくれました.妻に感謝です.

だいたいそんなところですが,いくつか特記事項です.

スイス留学のためには,日本にある領事館は全く関与せず,スイスは連邦制のため,受け入れ大学を通じて,その州政府に滞在許可をもらわないといけないというところに戸惑いました.

滞在許可をもらう過程で,犯罪経歴の証明書が必要ということで,県警本部に書類をもらいに行きました.何か独特の雰囲気のあるところでした.申請してから2週間後くらいに受け取りに行くのですが,受け取ってトイレに入ったら,小便器の前に,「桜吹雪を防ぐためにもう一歩前へ」とイラスト入りのポスターが貼ってありました.なかなかうまいな,と思いました.

というわけで,何とか4月3日に関空を発ち,ドバイ経由でジュネーヴにやってきました.途中,イタリアのガルダ湖上空を通過し,2010年にEricと出会ったことを思い出すとともに,いよいよだなと気持ちを新たにしました.
ジュネーヴに着いた日からしばらくは暖かく,近くの公園は花盛りでした.