Summer Trip in Swiss

7月15日(月)から21日(日)まで,家族でスイス旅行に行ってきた.その様子を記しておく.

7月15日(月):ジュネーヴ~チューリッヒ

チューリッヒまでは,ジュネーヴから3時間弱くらい.ローザンヌあたりまではレマン湖のほとりを走るが,そのうち平原に.また,フランス語圏からドイツ語圏に入ると,駅名もドイツ語風になる.

チューリッヒは,スイスのドイツ語圏にあり,スイス最大の人口を誇る都市である.最大の人口といっても34万人ほど,2位のジュネーヴが18万人ほど.
https://worldpopulationreview.com/countries/cities/switzerland
人口規模からすれば,私が馴染みのある長野県の長野市(36万人)と松本市(24万人)みたいな対比だ.また,山に囲まれた盆地という点でも似ていると言える.しかし,実態は,まあ,比較にならないと言ってよい.比較しても仕方ない.チューリッヒにせよジュネーヴにせよ,その人口規模からは想像できないほどの都市である.
ジュネーヴとチューリッヒの比較では,行った範囲での比較だが,ジュネーヴのジェントリフィケーションの度合いもすごいと思うが,さらに上を行っている気がした.国際金融の中心地の1つであり,街並みもより近代化されている.(それ自体に批判はあるにせよ)各種の世界の大学ランキングでトップ10付近に位置付くチューリッヒ工科大学の存在も大きいと思う.ジュネーヴの方は,ビジネスよりは国際機関の都市という感じなので,せかせかした感じが少ないかなと思われた.ジュネーヴの方が生きやすいかなと思った.

チューリッヒのホテルは高いので,もはやそういう選択肢はなく,それでも高いマンションの一室を借りた.日本の自宅マンションの2倍くらいの面積がありそうな部屋だった.私の見積は3億円,妻は2億円と踏んだ.しかし,
https://realadvisor.ch/en/property-prices/city-zurich
によると,アパートメントについては,「市場に出ているアパートの中央値は1,792,500スイスフランである。 80%の物件の希望価格は854,500スイスフランから2,961,500スイスフランの間である。 チューリヒの平均m²単価は16,161スイスフラン/m²(1平方メートルあたりの価格)である。」つまり,中央値が3億1千7百万円ということになる.泊まったところの新しさと規模感からすれば,ぼくの見積でも安すぎるかもしれない.いずれにしても,普通の日本人には全く手が出ない.

この日は,チョコレートのLindtの博物館を訪問.しかし,予約枠が埋まっていて,喫茶とショッピングのみ.大きな板チョコに文字を書いてもらうことができ,世界で1枚のチョコレートができるのだが,人件費込みとはいえ,23フランした.チョコレートに4千円.いや,もうそういうことを考えていては何も楽しめない.旅行中はあんまり考えないことにしようと思うことにした.
Lindt

Fritag本店でバックパックを購入.高機能ではないものの(その分割安)デザインの気に入ったものがあった.そのとき,Fritagのショルダーバッグを持っていたので,レジで,「これ日本で買ったんだよ」と言うと,「ああ,10年くらい前のものかな」と.傷み具合とかからちゃんと判別できる店員さんも,なかなか訓練されているようだ.
Fritag

Fritag本店近くの公園に隣接するレストランで夕食.子どもたちを遊ばせながら,ワインと夕食を楽しんだ.味も確かなものだった.

7月16日(火):チューリッヒ~マイエンフェルト

この旅行を計画するさい,子どもたちを「ハイジの里」に連れて行きたいというのがあり,最初にマイエンフェルトに行くことを決めた.チューリッヒからマイエンフェルトまでは,1時間半ほどの行程で,次第に湖や高い山が見えるようになり,心が浮き立った.

この1,2ヶ月前,旧Twitter(X)で,あるイタリア人が,日本のアニメの「ハイジ」のテーマ曲が,リヒャルト・シュトラウスの「アルプス交響曲」にヒントを得ているのではないかといった書き込みを数ヶ月前にしていたのを見つけた.そのとき,果たして,マイエンフェルトの風景を見たときに,「ハイジ」か「アルプス交響曲」のどちらが頭の中で鳴るのだろうかと思い,期待していた.結果は「アルプス交響曲」.「ハイジ」のテーマが鳴ることはなかった.もっとも,「アルプス交響曲」も,スイスアルプスの描写ではないのだが.

この旅行に出る直前に,娘たち2人と,映画「ハイジ アルプスの物語」(2015)と「サウンド・オブ・ミュージック」(1965)を見た.すでに娘たちは,アニメの「ハイジ」は,だいたい見ており,映画は復習というような意味合いだった.
「サウンド・オブ・ミュージック」は,初めて見せた.「ドレミの歌」は,当然知っているが,他の曲は知らないようだった.ともあれ,時代背景を説明しながら,2日に分けて3時間の映画を見通した.最後に,オーストリアから山を越えるシーンで,ここで山を越えてスイスに出たんだよと言うと,長女(7歳)は,なるほどそういうわけでこの映画を見たのか,というような反応だった.また,そのオーストリアからスイスに山を越えた当たりに行くんだよというと,関心もより高まっていたようだった.その後も,映画をまた見たいと言っているが,何せ長いので,次がいつになるかは不明.
ところで,第二次世界大戦中,オーストリアは,ナチス・ドイツの手に落ちてしまったが,スイスが落ちなかったわけというのも面白い.「アンリ・ギザンが軍の最高司令官に任命され、スイスでは戦時にしか与えられない「将軍」の称号が与えられました。外からの侵略を防ぐためにアルプス山中に要塞を建設する計画が進められました。ナチスが侵攻してきた場合に、要衝であったアルプスの山岳地域だけでも守ろうとしたのです。」(https://www.myswitzerland.com/ja/planning/about-switzerland/history-of-switzerland/world-war-ii/)その要塞計画には,主要道路や,国境のトンネル,付近の橋を爆破してしまい,アルプス山脈に立てこもってゲリラ戦を行うというもので,一説では,それがナチス・ドイツのスイス攻略の意気をそいだとか.

マイエンフェルトに着いたのは午後だったが,片道40分ほどという「ハイジの村」(Heididorf)に向かって歩き始めた.途中までは家々の間を行くが,ところどころに泉が湧いており,手をぬらしたり顔を洗ったり,試しに飲んでみたりしながら登っていった.ワイナリーもいくつかあったが,午後遅いためか,開いているところはなさそうだった.家々がなくなると,ブドウ畑やお花畑が広がって,上の方に目標となる「ハイジの村」が見えていた.実際には,7歳児と5歳児の足で,道草を食いながら行くと,ちょっと40分では無理で,1時間ほどはかかったと思う.
 ハイジの村からの風景
「ハイジの村」に到着したのは17時前,1時間ほどで5つほどあるスポットを見学した.ハイジが冬期を過ごしたとされる家,村の学校など.ぼく自身は,村の学校が印象深かった.そこは,牧師の寄宿舎でもあり,ハイジやペーターが座っていただろう長机と長椅子,教壇の奥にある牧師(教師)の住まいとなっていた.アニメの「ハイジ」の学校の場面が蘇った.そろばんのようなものも置いてあり,洋の東西を問わず,こういった道具を使って計算を学んだのかなと思われた.
 
歴代の「ハイジ」の映画や番組のポスター(一部は映像も)や,世界各国で出版された翻訳本などが一覧展示されているところもあった.やはり,日本の「アルプスの少女ハイジ」(1974)は別格で,登場するキャラクターのグッズなども展示・販売されていた.また,日本ではそれほど知られていないが,日本の番組のキャラクターをもう少し西欧風に変えたヨーロッパ版(amazon prime, disney plus)もあるらしく,そのポスターやキャラクターのグッズもあった.スイス人でも,日本のアニメからハイジを知ったという人も結構いるらしい.ただ,記事によると,日本のハイジに対するスイス人の評価は,必ずしも高くないようだ.

次女が,ハイジの衣装(この地方の民族衣装と思われる)がほしいと言い出して,それを買った.翌日から2日ほど,喜んでそれを着ていた.
特筆すべきは,マイエンフェルトでは,ガイドのパンフレットに日本語表記のものが結構あることだ.やはり,「アルプスの少女ハイジ」の影響は大きいと思う.日本人観光客もそれなりに多いのだろう.

本当は,さらに上にある「ハイジヒュッテ」あたりまで登りたかったが,さらに倍以上の距離がありそうで,ちょっと小さな子連れでは無理かなと思い諦めた.

夕食は,この旅行で唯一のホテルだったハイジホテルのレストランで食べた.その庭先に宿泊者用の公園が広がっており,子どもたちを遊ばせながら食べた.山の風景を見ながらの食事はおいしかった.やや残念だったのは,2泊したが,晴天で山の上まで見えたのは,最終日の朝だけだった.それでも,十分に素晴らしい風景だった.

7月17日(水):マイエンフェルト~リヒテンシュタイン日帰り

この日は曇り.山を登る計画は早々に諦め,隣駅のバート・ラガーツの温泉(ハイジでは,クララのおばあさんが,療養に立ち寄るという設定だったところ)に行くか,もう少し先にあるヨーロッパ第4の小国リヒテンシュタインに行くかということになったが,バート・ラガーツの公共の温泉施設はしばらく改修期間ということで,リヒテンシュタインに行くことにした.

バート・ラガーツからもう1つ先のサルガンスまで行き,そこから30分ほどバス.途中ライン川を越えるとリヒテンシュタインだ.ファドゥーツとも呼ばれる地だが,リヒテンシュタイン公が土地を買い増してある程度の大きさとし,1719年に神聖ローマ帝国から自治権を与えられて誕生した国である.現在もファドゥーツ城には,その末裔が住んでいるので,城の中には入れない.

こぢんまりとした国なので,いわゆる1つある繁華街に全てが集まっているという感じ.しかも,博物館・美術館から,陸上競技場,ホールまで,こんな小国にどうしてこんな立派な物があるのかと思うほどの施設がある.それはどうやら,ここがいわゆる租税回避地として名高いからであって,世界中から集まってくるお金で,こういった立派な物が作れたのだろうと思う.
日本でも,ときどき,小さな町村でも,やたら立派な庁舎が建っているところがある.これまで行ったところでは,千葉県旧小見川町の庁舎が,かなり仰天クラスだった.長野県の栄村もなかなかのものだった.栄村はちょっとよくわからないが,小見川町は,周囲にある鹿島工業地帯の工場からたくさんの税金が入ってきているんだろうなと思われた.原発関係の立地自治体も(私自身は訪問したことはないが)すごい施設が建っている.日本のお金が集まる自治体のことが想起されたが,リヒテンシュタインは,それらとは異質だが,お金が集まるようにうまいことやっている.もっとも最近は批判に晒されて,状況は変わってきているようではあるが.

リヒテンシュタインは,切手の販売が国の主要な収入源だったこともあるようで,切手博物館には,近代以降の切手コレクションが収められていた.今でこそ精細な印刷技術は一般にも得られるものになったが,これだけ精緻なものが印刷できたというのは,単純にすごいことだと思う.実物とデジタル画像を含めた展示だった.

リヒテンシュタイン城まで歩いてみた.ハイジの村への登山よりは楽だったが,それでもなかなかたいへんだった.城の中には入れないが,周囲から街並みとその向こうの平原,ライン川,その向こうの山々を見下ろす風景は,なかなか素晴らしいものだった.ふと,シューマンの交響曲第3番「ライン」でも聴いてみようかと思い,歩きながらかけてみると,気分も浮き立ち,足取りが軽くなるようだった.

このほか,現代美術館を訪問したりした.贅沢な空間に配置されたモダンアートを楽しんだ.立ち寄ったイタリアン・レストランもなかなかの美味であった.

この日も夕食は,ホテルのレストランで.こんな土地柄としては珍しくタイ風のカレーもメニューにあり,それを頼んでみた.まずまずというところだった.

7月18日(木):マイエンフェルト~ベリンツォーナ

ホテルをチェックアウトしても,予定の電車まではしばらくあるので,旅行案内所でハイジ関係のお土産を買った.
この日は全部で3時間くらいの行程の予定だったが,途中クール(Chur)まで行くと,その先がバスだということに気がついた.バスにはトイレなどがないようなので,飛び乗らず1本遅らせて,軽食を駆け込みトイレを済ませてから乗り込んだ.途中はほぼ高速道路で,時折バス停に立ち寄るために高速を外れる程度で,快適だった.また,クールからベリンツォーナ(Bellinzona)までの山間部は,非常に風光明媚で,大きな山々と,そこから流れ出す数々の滝,遠くに開けた盆地など,車窓を楽しんだ.マイエンフェルト付近の景色よりも素晴らしいと思う絶景もいくつもあった.自分でドライブをしていたならば,立ち止まってきちんと写真に収めておきたいと思った.
ライン川を渡る

ベリンツォーナに到着し,その日宿泊予定のアパートまで.しかし,そこで問題が….本当は前日までに,IDの登録などをしておかなければならなかったようなのだが,アプリやウェブサイトでないとその情報が見られなかったため,メールで何か指示があるだろうと思っていたら何もなく,何もしなくてよいものと思って行ったら,着いてから慌てふためいた.小一時間もかかって情報の登録などをし,ようやく情報が更新されて,その朝,アパートの持ち主から送られたメッセージが見られるようになり,屋内に入ることができた.妻は,もうぼくには予約を任せないと思っているらしい.ぼくは,ホテルのときだけにしよう(しょぼん).

その日は,もう観光はなしで,近くのスーパーに買い物に行って,妻の手料理をいただき,屋内でゆっくりした.しかしこの日は暑かった.スイスでは個人宅にエアコンを付けるのが制度上難しく,ここでもなかったため,寝苦しくて夜半まで汗が止まらなかった.
と思ったら,男性同士が行為に及んでいる叫びのような声が聞こえてきて起こされてしまった.時計を見ると3時半くらい.まあ,これだけ暑いと,涼しい時間を選んで窓を開けて行為に及ぶとすれば,こういう時間帯になるのかななどと思ったりした.何をオレは分析しているのかと笑えてしまった.それにしても,未明に声を上げるといえば,カッコウだが,カッコウのほの暗い声のリピートは何とも思わないが,こちらの方のリピートは,もう何でもいいから,早く終わってくれと思わずにいられなかった.

7月19日(金):ベリンツォーナ

ベリンツォーナは,UNESCOの世界遺産に登録されている3つの古城,カステルグランデ城,モンテベッロ城,サッソ・コルバロ城がある.古代から交通の要衝として栄えていたようで,これらの城は,セットで要塞として機能していたらしい.
3つとも訪れるかどうかは,様子を見て考えようということにしていたが,最初に訪れた,最も大きな城であるカステルグランデで午前から午後にかけて,ランチを挟んで滞在した.城の本体は2つの塔が中心で,城郭というようなものはないが,張りめぐらされた城壁,その城壁も部分的に2階建てになっていたり,要衝を守ろうとする意気込みが伝わってきた.一部の建物は博物館になっており,古代の地殻変動の時代の様子,古くから交易に使われたコインの展示など,世界遺産に指定されているだけあって,力のこもった展示だった.
  
痛かったのは,ここで長年愛用してきたサングラスの柄が突然折れてしまった.2016年のサバティカルに出かけるさい,経由したホノルルで買ったOakley.残念.
昼食は,博物館のテラスのレストランで.日差しはきつかったが,日陰の席で食事を楽しんだ.そして,ここは,スイスの数少ないイタリア語圏なのだが,パスタの味がひと味違っていて,ペンネとニョッキを楽しんだ.妻は,旅行の中で最も気に入ったレストランだったようである.
ところで,この城の博物館だが,世界遺産に登録されていて,さぞかしインターナショナルな展示があるかというと,説明書きの表記はイタリア語のみだった.観光客数がそれほど多くないためか,A4用紙に,英語・ドイツ語・フランス語などを言語別に印刷した説明書をラミネート加工したものを訪問者に応じて配布していた(見終わったら返却する).スイスのイタリア語圏は全体の中で狭いし人口も多くない.そんな中で,アイデンティティを守るために,あえてイタリア語表記のみなのかなと考えた.街中の人々も,チューリッヒやマイエンフェルトとは違ってラテン系の顔立ちの人が多かった.さらには,借りていたアパートには,普通の便器の他にビデの容器があった.イタリアに行くと,ビデを備えたところが多いが,スイス国内でもあるベリンツォーナで,ビデを見ることになるとは思わなかった.ここでも,イタリア文化圏であることを主張しているように思われた.

子どもたちは,もう他の2つの城に行くのは関心がないようなので,城の近くのカトリック教会Chiesa Collegiata dei SS. Pietro e Stefanoに行ってみたり(ここは,スイスでもイタリア文化圏ということもあり,カトリックが信仰されているようだった.この教会の柱に施された装飾がゴージャスだった.壁や天井の絵画もカトリック風だった),Museo Villa dei Cedriという美術館でモダンアートを楽しんだ.また,途中で立ち寄ったおもちゃ屋さんには,日本語のできる店員さんがいて驚いた.
この日の夜も,妻の手料理をいただいた.

7月20日(土):ベリンツォーナ~チューリッヒ

この日は,午前10時にチェックアウトして,ぼくは荷物番,他の3人で近くのカトリック教会を見に行った.それからチューリッヒへ.乗り換え前まではのんびりと座れたが,乗り換え後はかなり満員で一駅分は立っていた.チューリッヒでは,最初に借りたマンションに再び.今回は,前回いなかったホストがいて,ご挨拶.Airbnbの感じが少し分かった気がした.

荷物を置いて,国立博物館へ.1時間ほどしか時間はなかったが,ざっと見た.子ども連れだったのでじっくりとは見られなかったが,スイスの鉄道網がかなり細かく張りめぐらされていることがわかった.また,鉄道の敷設が,4つの公用言語を持つスイスの各州・各地方をまとめる役割を果たしていることもわかった.
第二次世界大戦中は,中立国という立場を利用して,武器をナチス・ドイツに輸出したりもしていたようだ.戦後,それが,批判の対象となったりもした.しかし,中立を盾に立ち回ってきたスイス外交のしたたかさを見た.

この日は,しばらくずっと西洋風のものばかりだったので,中華に行こうということになり,何軒かある中から中国系の人だけが従業員とみられる店(Long Wai)に入った.現地に適応しない感じの本場の味で,おいしかった.
その後,次女が最初に行った公園に行きたいというので,そちらに移動.われわれも,最初に入ったレストランに入り,ワインとサラダだけ頼んだ.注文したロゼワインは,なかなかガツンとくる味で,飲み応えがあった.かなり遅くまで飲んだ(子どもたちは遊んだ).

7月21日(日):チューリッヒ~ジュネーヴ

チューリッヒは,中央駅だけでなく,Oerlikon駅付近もそれなりに賑わっているようで,先日来目を付けていた駅前の中華(Peking Garden)に入った.味は,おしなべて中かやや上で,値段もこなれていた.だいたい大きな駅前の飲食店というと,まずいのにぼったくりの値段というところも多いが,ここはまずまずだった.前日の店と比べると,万人向けにアレンジしたような味だった.日本人には受けそうな味かと思う.

そして,インターシティの電車に.行きとは違う最も北側のルートでジュネーヴに.途中から,久しぶりにフランス語表記を見ると,意味が分からないなりにも安心する.
無事,ジュネーヴのコルナヴァン駅に到着.そして,トラムに乗ってわがぼろ屋に到着.1週間,充実していたが,やはり長かった.ちょっと休みたい.

Sunbelt 2024

6月下旬に,社会ネットワーク分析の国際会議であるSunbelt 2024に行ってきました.

遡って2月,まだ日本にいる頃ですが,発表に応募しました.2年ぶりの応募でした.前回はコロナ禍で,まだオンライン開催だったかハイブリッド開催だったかで,ちょっと海外に出かけていく気にもなれずオンライン参加でしたが,今回は,スイス行きも決まっていたので,そこから会場のあるエジンバラまでは近いなと思い応募しました.スイスに行くのも,コロナが始まって以来の海外だったのですが,何か,わざわざ海外に出かけていって,20分程度の発表をするだけで帰ってくるというのが煩わしく思うようになって,海外はご無沙汰でした.今回も,スイスからだから行く気になったという感じでした.

ともあれ,要旨はアクセプトされて,ポスター枠に回されず,口頭発表となりました.要旨だけではありますが,3人の人からのレビューがあって,10点満点で点数が付けられる形になっていましたが,そのうち1人は10点をくれたりして,ちょっと気持ちが高ぶりました.

発表内容は,このところこればかりですが,御柱祭についてです.出発数日前からパワーポイントの準備を始め,ところどころ再分析をしながら,おおむね順調に進んでいきました.しかし,2つ苦しんだところがありました.
1つは,御柱祭の背景をどこまで説明するか,です.ほとんどのオーディエンスが,日本のことも神道のことも御柱祭のことも知らないと想像されました.どこまで説明する必要があるのかです.考えたことは,リサーチクエスチョン(RQ)を提示しますが,そのRQのために必要な範囲のことを説明し,それ以外のことは割愛するという方針です.書いては少し間を置き,RQまでのところを読み返して,不足はないか,不要なことまで言っていないかということを自問自答しながら進めていきました.これは,結果的によかったと思います.これまで,海外で日本国内のことについて発表することを躊躇することもありました.しかし,今年は在外研究中で時間もあったことから,そのあたりをよく考え,うまく形にできたのではないかと思います.
もう1つは,最後のオチをどうするか,です.関西人なので,オチのない話はダメみたいな思い込みもあって,これには最後まで苦しみました.別に面白おかしくするということではなく,なるほどなと腑に落ちる形にするということです.結局出発に間に合わず,最後にオチを考えたのは,発表前夜でした.めっちゃいいオチとまではいかなかったですが,まあこんなものかというくらいにはなりました.

報告は,Networks & Culture というセッションにおいて行いました.発表自体は,15分+質疑5分のところ,事前の練習段階では17分だったので,まあそれでいいかという感じで臨みました.およそそのくらいの感じで終わったのでよかったかなと.考えながらだと間に合わないと思ったので,原稿読み上げ形式で行きました.もちろん,一文は短く,パワポ上で指示するところは記入,ブレスの位置も記入,と何らそれとは感じさせないくらいにはしておきました.だいたい仕込みどおりだったと思います.
質疑もすぐに手が上がって,滞りなくすみました.
次の発表者が現れなかったので,一時休止となり,その20分くらいの間に,セッションのオーガナイザーの人からいろいろと質問を受けました.背景を最小限度にとどめたので,やはり,そのあたりのことをいろいろと聞かれました.

そのセッションでは,韓国のオペラ歌手のネットワークと成功とか,文化資本と社会関係資本との関係について韓国のデータを用いて分析したものなどがありました.後で分かったのは,それらが同じ指導教員のもとにいる大学院生の発表ということでした.指導教員の人も来ていたので,セッション後,名刺交換をしていろいろと話ができました.これからも連絡を取り合いましょうということになったので,今後が楽しみです.

さて,合間を縫って,エジンバラの観光も楽しみました.エジンバラ城に入るには事前予約が必要という話を聞いたので,その翌日の空きを見たら,ちょうど1人分だけ12時半の枠が空いていて,それを予約しました.少し前に到着しましたが,すぐに入れてもらえました.ガイドブックを買って音声ガイドを借りて出発しました.すぐに分かったのは,午後1時ちょうどに,大砲から空砲を撃つというイベントが毎日あるということでした.その場に行って20分ほど待ち,規制線から2列目くらいから見ることができました.思ったより音は小さかったので,ビビってビデオを写す手がぶれるみたいなことはありませんでした(笑)
その後は,中を見て回りましたが,城内のあちこちの建物が博物館となっていました.それが,見事に全て「戦争博物館」というべきもので,スコットランドがイングランドと歴史的にどんな争いを繰り広げてきたか,また,大英帝国となってから,スコットランドの部隊が,どの戦争でどういう活躍をしたかということが延々と説明されるというものでした.高校の世界史で習うような内容もありましたが,高校時代だと,イングランドとスコットランドの細かい区別などがついていないところもありました.しかし,より細かい説明があり,なるほどそういうことだったのかと,納得することが多かったです.
気づいたこととしては,報償として配られたメダル類がたくさん展示されていたことでした.ひるがえって日本のことを考えてみると,戦功を上げてもメダルという形で報償が与えられることはなかったと思います.日本各地の地元の博物館に行っても,明治以前にメダルが与えられるということはなかったのではないでしょうか? 殿様から下されたお礼の書はよく見る気がしますが,メダルはないと思います.書は朽ちたり焼けたりして残らないものも多いと思いますが,メダルは数百年にわたって残るものです.あちらの博物館にもこちらの博物館にも,これでもかというほどメダルが展示されていて,西洋の戦争の一つの形に気づけました.
また,建物の一つは,捕虜の収容所となっていたところで,その内部の様子も復元されていて,当時の様子が忍ばれました.ただ,これについては,スイスに来てから行った,シヨン城にもやはり捕虜や囚人の牢があり,その様子があまりにもそっくりでした.城というものの一つの機能として,捕虜の収容というのは西洋のどこにでもあったのだなと思いました.ただ,スコットランド城で面白かったのは,捕虜たちが,毎日の食べ物をお金を出して買っていたということでした.どうも,捕虜を働かせ,それに対して少額ながら対価を払うようなやり方が行われていたようです.何というか,資本主義国なんだなと感心した次第です.だから,中には相当な腕前を持つ工芸品を作る捕虜もいたようで,彼らが作ったとされる品々の展示もありました.そういった捕虜は,少しでもペイがよかったのだろうか,それとも,その分は搾取されて,ペイは他の捕虜たちと同じくらいしかもらっていなかったのだろうか,などと考えたりしました.
ともあれ,エジンバラ城,観光のつもりが,ものすごく勉強になりました.

エジンバラで最悪だったのは,交通ですね.これは,最悪でした.
最初に空港に降り立ったときから,どうやって会場の大学まで行くか調べましたが,どうしてもバスを乗り継がないと行けない模様.しかも,ルートはいくつもあって,どれがよいのか分からない状態でした.
ひとまず,1回乗り継ぎで行けそうなルートで行くことにし,途中のバス停で降りました.ところが,乗ろうとしていたバスが,目の前を素通りしてしまいました.あっという間のことなので,唖然としてしまいました.後から聞けば,乗るよという意思表示をしないと,行ってしまうということでした.日本でもジュネーヴでも,とりあえず意思表示はしなくても,バス停に人がいたら止まるし,そういうものだと思っていたら,全然違ったというわけです.同じ西洋ということで,まさかそんな違いがあるとは思っていませんでした.不覚でした.
ともあれ,その見るからローカルなバス停から,会場まで行くかを再度調べ,何とか,そこから1回乗り換えで行けそうだということが分かりました.何とか会場にたどり着きましたが,空港を出てから,随分と時間が経ってしまいました.
その日は,夜に街に出ていくことになるかなと思っていたので,一日券を買っておいたのはよかったですが,そうでなければ,乗り継ぐごとに2ポンドとかを払うことになって,とんでもないことになっていたかもしれません.そのチケットのシステムも非常に分かりにくいものでした.バスの一日乗車券といっても,いろいろあるのです.まず,Lothianという会社が運営するバスが一番多いようなのですが,小さいバス会社もあり,Lothianの一日乗車券は,他社のバスには適用されません.しかし,素人には,Lothianかそうでないかを,グーグルマップのバスの系統(番号)から判断することは,はっきり言って不可能です.後日,バスが来てみたら,Lothianとボディに書いていないもので,乗れなかったこともありました.また,バスにも,通常便と深夜便の区別があって,普通の一日乗車券は通常便のみで,より高額な一日乗車券は,両方乗れるというような区別もありました.最初,空港のバス停にあった看板には,普通の一日乗車券の記載がなかったので,高額な方を買ってしまいました.
そうかと思えば,バスの一日乗車券でも,トラムには乗れるとか,ただし,トラムも,エジンバラ市域の設定があり,エジンバラ空港はその範囲から外れているので,空港に行くには別料金とか,かなり複雑でした.
ともかく,エジンバラのバスは,旅行客にとってはカオスです.事前に『地球の歩き方』を手に入れておけばよかったのかもしれませんが,それに書かれていたかは分かりません.ようやく,スイスに発つ日になって,全容を理解したという感じでした.

そしてまた,今回たいへんだったのは,やはり交通機関がらみですが,飛行機でした.
出発当日,7時半頃の飛行機だったので,5時頃に出発というつもりにしていました.そして,まだパワーポイントの準備を深夜までしていたところ,日付が変わる頃にスマホの通知が鳴って,何かと思ったら,予約便がキャンセルになったとのことでした.それから10分ほどして新しい通知が来て,代わりの便が提案されていました.当初の予定では,昼前にエジンバラ空港に到着する予定でしたが,それだと到着は夕刻になってしまい,その日は何も見られないことになってしまいます.そこで,変更を試みました.
最近は,チャット形式でやることになっているようで,チャットを使いながら変更を試みました.ところが,しばらくすると,向こうが提案してきたその変更案の便がキャンセルになったとのことで,また一からやり直しに.そうすると,チャットの方も状況が飲み込めていないようで混乱していて全く埒があかない状態に.そこで,結局のところ,電話番号を調べてそこにかけて,深夜2時とかいう時間にしどろもどろになりながら,ようやくアライアンスも違う別の航空会社の便に変更してもらうことになりました.それだと,エジンバラ空港には,昼前に到着するということで,いいかなと思いました.
ところが,空港に行ってみて気づいたのが,どうやってチェックインしたらよいのか分からないということでした.アライアンスが違うからか,オンラインチケットは発行されていないようでした.そこで,もとの航空会社のカウンターに並んでみましたが,ここではないと言われ,別のカウンターに回されました.確かに小さな字で,変更後の航空会社の名前も書いてありましたが,そんなんじゃ気づかないよ.しかしともあれ,何とか航空券を手に入れました.
そして,乗り継ぎのブリュッセルに到着.到着寸前になって,客室乗務員から,乗り継ぎ時間が短いので,Expressと書いた札をあげるから,入出国審査のところで,Express Lineに行け,そして,急いでと言われました.降りて調べてみると,まあ見事に,次のゲートまで,こっちの端からあっちの端みたいなことになっており,その途中で入出国審査,その間30分強ということで,小走りに走りましたが,かなりヘロヘロ.
一睡もしておらず,空港で走り,バスの乗り継ぎはうまくいかず,会場の大学には到着したものの,発表会場に着いたら,睡魔が….もはや,余力はなかったです.この無茶をした影響は,翌々日くらいまで残り,夜はすぐに眠たくなるので,パワーポイントの最後の準備は,最終日直前になってしまったというわけです.本当に,今回は,交通機関にやられました.

それでも,着いたその日は,ジュネーヴ大学に呼んでくれたEric Widmerと,フランス人たちのグループで飲みに行きました.これは愉快でした.
まず,フランスでは,トゥールーズ大学に社会ネットワーク分析の拠点があることを知りました.そこのファカルティや大学院生と仲良くなれてよかったです.話の内容は,いろいろありましたが,一番印象に残っていることとしては,その週末にフランスで行われる国政選挙についてです.事前情報からも,極右政党が政権を取るかもしれないということでしたが,大学の教員としては,首にされないまでも,研究費が抑制されたりするのではないかと心配していました.私の方からは,日本の国立大学の研究費がひどいことになっているというような話をしましたが,同じようなことになるんじゃないかと心配していました.半ば冗談でしょうが,Ericに,首にされたらスイスに呼んでくれよとか言って笑いを取っていました.幸運を祈るしかありませんね.また,フランス人からは,スイスに行くと,スローでたまらないという話を聞きました.何でも,スイス人の話すフランス語は遅いのだそうです.体感として,0.8倍速くらいと言っていました.みんなコロナ禍でオンライン講義の準備をしているので,ぼくも,詰め込みすぎて(ぼくが年を取ってしゃべりが遅くなっているということもあるかな)長くなってしまい,1.2倍速くらいにして,時間を詰めるということがありました.1.2倍速になると,何か,シャキシャキとしゃべる感じになっていいんですよね(苦笑) そんなわけで,0.8倍速というのは,おおむねそのくらい遅くした感じになるので,想像がつくだけに,笑えました.Ericも,否定はせず,苦笑していました.

2日目の夜は,日本人グループでビストロへ.3日目の夜は,大人しく自室で.最後の夜は,獨協の藤山さんと中華に行きました.最後の夜は,自分の誕生日でした.誕生日に学会発表というのは,これまでになかった経験ですが,藤山さんに祝ってもらって,最後の最後に気分も解放され,ようやく心置きなく楽しむことができました.まあ,一生に一度くらいこういう誕生日もあってよいのかもしれません.

ともあれ,予想していたよりも,はるかにたいへんな道中でした.得たものも大きかったですが,たいへんさの方が上回っていたかな.ジュネーヴのうちに帰ってきたのは,午後2時頃でしたが,その日は,ほとんど使い物にならず,寝ていました.

来年は,パリ開催だとか.日本からだし,どうしようかな.現状では,もうあんまり行きたくない思いが強いです.でも,一年に一度くらいは出ないとね.

在外研究 in スイス…5月中旬から6月末

長らく更新しなかったので,このあたりで.
といっても,5月中旬以降は,ほぼルーチン生活になり,時折,何かが起こるという感じだったので,特段に書くこともなくなってきたという感じだ.

滞在許可証と日本・スイス社会保障協定

まず,長くかかっていた滞在許可証発行までの手続きだが,6月5日(水)にOCPM(Cantonal Population and Migration Office)に行って,写真と指紋を採ってもらいに行き,およそ1週間後に,滞在許可証が届いた.ようやくこれで何とか不法滞在者にならずにすんだ.

と思ったら,もう1つ,5月中旬に,ジュネーヴ州の Service de l’assurance-maladie (健康保険サービス,SAM)というところから,健康保険を6月末までに買うようにという手紙が届いた.

曰く(DeepLによる翻訳):
スイス健康保険法(LAMal)では、スイスに居住する人は誰でも、スイスに居住すると同時に健康保険と傷害保険に加入することが義務付けられています。LAMalでは、カントンに到着した日から3ヶ月以内に、本人および扶養家族の健康保険に加入することが義務付けられています。
この3ヶ月の期間内に保険に加入した場合、LAMalは、スイスに入国した日から3ヶ月間有効です:

  • 3ヶ月以内に保険に加入した場合:加入は、ジュネーブに正式に居住した日に遡って有効となります。
  • その日から保険料をお支払いいただきます。
    より簡単に手続きしていただくために、以下の手順をお勧めします:
    1) 保険料を比較し、自分に合った保険会社を選ぶ(付録1-保険料表参照)。
    2) 加入申込書(付録2)と保険会社の住所リスト(付録3)を使って、希望する保険会社に加入を申し込む。
    3) 健康保険局(SAM)に健康保険証書のコピーを送付する。
    スイスに到着してから3ヶ月以内に、健康保険証書のコピーを送付する。
    3ヶ月以内に健康保険に加入しない場合:
  • 健康保険会社に自動的に登録されます。
  • 加入が遅れた場合、保険会社から違約金が請求されます。
  • 医療保険は強制加入日から開始されます。
    スイスで社会健康保険(基本保険)の認可を受けた保険会社は、あなたの年齢や健康状態にかかわらず、無条件で加入を受け入れる義務があります。同様に、保険料がどのようなものであっても、保険会社は同じ医療サービスを提供します。補足的な保険も提供されますが、これは強制ではありません。

さて,これについては,日本人は,言われたとおりに健康保険を支払う必要はない.日本とスイスの間に,「日・スイス社会保障協定」というのがある.これは,短期的にスイスに駐在するような人を対象として,社会保険料の二重払いを避けるための協定である.もちろん,スイスから日本に来る人についても適用されることになる.

この協定に日本出国前に気づいて,私学共済を通して(←これは,私立学校に勤めている人の場合,それ以外の場合は,日本年金機構に尋ねた方がよい),スイスでの健康保険に加入しなくてもよいように書類を準備しておいた.

そういうわけで,まず,私学共済に電話して,こういう手紙が届いたのだけど,出国前にもらった書類を提出すればよいことを確認した.それでOKということだったので,書類を携えてSAMのオフィスに行ってみた.すると,…誰もいない.あるのは,何種類かの書類と,受付箱のみ.とりあえず,心配性のぼくとしては,オフィスでこれで間違いないか確認してから,投函したいと思い,その場にあった「問い合わせ」用紙をもらって帰った.
その夜,その電子版(PDF)もあることがわかり,それに記入して,所定のメールアドレスに送った.ところが,しばらく待っても返事がない.それで,もう一度,「以前問い合わせたのだけど…」とメールしたが,やはり返事がない.そしてもう一度.それでも,返事がない.
というわけで,困り果てて,ジュネーヴ大学のウェルカム・センターの人にメールしたら,やってみますということで中に入ってもらった.すると,あっけなく,ウェルカム・センターに送ってくれたら出しておきますと言われたので,書類をスキャンしてPDFにして出したら,それでOKですということになり,数日後に,うちに健康保険免除の手紙が届いた.

いやー,権威主義ですね.個人で出しても何の反応もないけど,ジュネーヴ大学という然るべき機関が中に入ると,あっけなくことが進む.これまでも,何かそんな感じだったけど,まあ,どこの社会でもそうかなとは思うけど,こんなものである.そういうわけで,スイスに在外研究で来る人や,国際機関などで駐在に来る人は,保険については,自分でやろうとするより,所属機関に中に入ってもらった方がよさそうということは,残しておきたい.
ともあれ,これで何とかなったのでよかった.そして,これで,法的な手続きについては,一応一通り完了ということになった.やれやれである.

LIVES (Swiss Centre of Expertise in Life Course Research) の LIVES DAY in Geneva ミーティング

5月30日(木),ジュネーヴ大学でLIVES Dayが開催された.大学院生たちの研究報告会というようなものと思えばよいだろうか.

LIVESとは,次のような組織である.
スイスのジュネーヴ大学とローザンヌ大学のライフコース研究に携わる博士課程以上の研究者は,LIVESセンターのメンバーになることができる.LIVESセンターのメンバーになると,次のような特典がある.以下,https://www.centre-lives.ch/en/membres-lives より.

  • LIVESセンターの様々な活動や支援について定期的に情報を得ることができます。
  • ライフコースに関するプロジェクトをLIVESセンターに関連づけることができます。
  • LIVESセンターのワーキンググループに参加することができます。
  • ライフコースに関するLIVESのトレーニングプログラム(博士課程プログラムおよび個別モジュール)に参加することができます。
  • ローザンヌ大学およびジュネーブ大学のLIVES会員は、研究助成金および国際研究者招聘プログラムの恩恵を受けることができます。

それはそれとして,5月30日に,LIVES Dayというイベントが開催され,それに少しだけ参加してきた.当日のプログラムは,こちら(PDF).昼から,まず,LIVESの概要説明と,キーノートがあり,その後,3つのセッションに分かれて研究報告が行われた.研究報告といっても,1人10分くらいの持ち時間で,その間に報告と質疑応答が行われるので,あまり立ち入った感じにはならなかったが,ジュネーヴ大学とローザンヌ大学の大学院生やポスドクくらいの人たちが,どういったことをやっているのかがチラッと分かった.
発表は,全て英語で,発表者がジュネーヴ大学とローザンヌ大学だから,フランス語でもよさそうなところ,あえて英語でやっているところが,教育の方向性を指し示しているように思われた.発表者は,実はロシア人だったり,必ずしもフランス語が母語の人ばかりではないのだが,それでもみんな英語が堪能で,(ぼくが言うのも何だけど)特に訛りがきついこともなく,かなり美しい英語を話していたので驚いた.

日本の大学院教育も考えないといけないなと思わされた.ぼく自身は,博士課程まである大学に専任の教員としては所属したことがないので何とも言えないが,日本の博士課程で,ふつうに英語で議論してふつうに意思疎通ができる程度になることってあるのかなと思った.発表者の研究内容というか意図みたいなものは,実質5分程度の発表では,正直なところ分からなかったが,英語での流暢な発表というところが印象的だった.

子どものお友だちの誕生会

次女(5歳,年長)の日本語学校のお友だちの誕生会が2週連続で続いた.いずれも一軒家で,立派なおうちであった.あんまり詳しく書くと判別できそうなのでやめておくが,いずれも,夫がこちらの人,妻が日本人というおうちだった.大人が十数人,子どもはもっとたくさんというようなもので,日本ではこんなに人が一軒のうちに集まるなんてことは,なかなかない.子どもたちが駆け回り,大人たちは飲みながら談笑する.こちらの誕生会がこんなふうに行われるのだなということは分かった.アメリカのファミリー・パーティに近い感じだった.アッパーミドルクラスの生活が垣間見られた.帰りは,ボートで送ってもらいました.

追記

子どもたちのポートフォリオについて

学期末・年度末となり,子どもたちの学校では,ポートフォリオの日時が設定される.これは,親が子どもたちの成績や生活などについての説明を受け,来年度進級できるかどうかの判断について(それでよければ)署名するという会である.
日本だと,通知表が各自に配られる.私がこれまで小学校から高校まで経験してきた中では,落第して上の学年に上がれなかったケースというのは周りにはなかったので,基本的に上の学年に進級できるものだと思う.先生の判断のみで進級は決定され,親がしゃしゃり出る余地はないのだと思う.
一方,形式的にかもしれないが,スイスでは,親が学校に出向いて,子どもたちの進級の対象となるようなものの評価(たとえば,次女の場合には,描いた絵についての教員の評価や,運動能力などに対する評価だった.おそらく学年がもっと上になれば,試験の成績なども評価対象となるのだろう)が1つ1つ添付され,それをもとに総合評価がなされたA4で1枚程度の用紙に署名させられる.評価用紙とは別に,進級の基準に関わる記述も全学年のものを一度に記した4ページほどの書類も併せて示され,自分の子が,基準に基づいて適正に評価されているかを親は確認することになる.たいへん行き届いた制度であると思うが,親が署名をさせられるというのは,なかなか緊張する体験であった.
私は,長女の時には学会に行っていたので妻に任せてしまったが,次女の時には1人で出向いた.次女はまだ6月までは年中ということになっていて,この学年は,基準書によると,基本的に上に上がれると書いてあったのだけど,それでもきちんとした評価が示されており,それを翻訳機で読みながら署名するのは,なかなかたいへんで緊張を強いられるひとときであった.
次女の場合は,学年が2部に分かれていて,数人の子どもたちの親が一度に教室に行って,資料や書類に目を通すのだった.およそ1時間半ほどの間に,適宜目を通して署名して,終われば帰って行くという形式だった.長女の場合は,1人1人の児童に時間が割り当てられていたようで,英語の通訳の人も交えて話があったようである.
長女の場合は,6月までは1年生ということになっていて,まだ簡単なことではあるが,事実上勉強が始まっているので,どうなることやらと学会に出ながらドキドキしていたが,無事に上に上がれるようで,胸をなで下ろした.長女はプライドの高い子なので,ここで語学を理由にもう一度学年をやり直しとか言われると,ちょっと困ったことになりそうだと思っていたので,本当によかった.
スイスでは,このような形で年度末の評価と進級判定が行われるのだと学習し,一つの制度を体験した.ともあれ,2人とも予定どおり上の学年に上がることができ,それは,とてもよかった.

次女のクラス(年中)で,日本の歌を教えたこと

6月21日(金),午前9時から,次女の年中クラスに行って,日本の歌を教えてきた.
依頼があったのは,その前の週の木曜日,朝次女を送っていったら,担任の先生から,日本の歌を紹介してもらえないかとのことだった.音楽にはある程度の自信はあるので,一つ返事で了承した.
しかし,改めて,どうしようかと考えてみると,なかなか難しいことでもあった.
まず,現代の流行歌ではなく,古めかしいが童謡にしようと思った.以前,ジュネーヴの繁華街のfnacに行ったときに,膨大な数のマンガがフランス語に翻訳され,いったい本棚いくつ分あるのだろうと思うくらい大量のマンガのコーナーが設けられていた.また,アニメについても,同じような状況だった.フランスで日本のマンガやアニメがかなりの人気があることは知っていたが,スイスのフランス語圏にも,同様に影響はあることがわかった.子どもたちの持っているものを観察しても,ピカチュウが付いているものを持っていたり,日本のマンガやアニメの認知度は,非常に高いと思われた.しかし,これだけ作品数が膨大にあると,何を紹介するにしても,一部の子しか知らないということになるだろう.私も,マンガやアニメには疎いので,無理する必要はないなと思い,童謡とした.
童謡は,実は,かなり得意分野である.子どもの頃,数多くの童謡のレコードがあり,自分であれこれとかけながら聞いていたからだ.それから50年も経てば様変わりしているかというと,新しい曲もあるのはあるが,それほど大きく変わっているわけではないことがわかる.もちろん,あまりに古くさい曲,つまり,時代性が強すぎて現代ではそのもの自体がなかったり,理解できなかったりするものは,現代のリストからは消えていた.しかし,おおむね50年前と変わりないことがわかった.
では,何を紹介すればよいだろうか? 基準は,1.比較的ゆったりしていて歌いやすいこと.2.テンポは速めで全部を歌うことは無理でも,オノマトペの部分であれば楽しく歌えそうなこと.というあたりを考えた.そして,基準1を満たすものとして「ぞうさん」,基準2を満たすものとして「ことりのうた」とした.
著作権としては,学校等で教える場合には,やや緩くなることから,楽譜やYouTube映像を出典を明記する形で使わせてもらうことにした.日本の著作権とスイスの著作権との関係がどうなのかについては,不明な点もあるが,まあ,おおむね準拠ということでよいのだろうと考えた.海外学会で発表するような基準でよいのだろうということである.
月曜日に楽譜にローマ字表記で歌詞を記入したものを渡しておき,金曜日までに,紹介用のパワーポイントとを準備した.前日になって,担当教員から,日本語の表記(ひらがなや漢字交じり表記)についても教えてほしいというような要望があり,紹介用のパワーポイントは,ひらがなのみ,漢字交じり,フランス語の3段重ねで作成した.当日も,朝行ったら,9時までにクラスの子どもたちの名前を日本語で(カタカナで)書いたものを用意してほしいと言われ,なかなかたいへんだった.
本番では,PCとこちらで何十フランで買ったキーボードを携えて行った.キーボードは,実際には,あんまり使わなかったかな.もちろん,ちゃんと弾き語りできるようにはしていきましたよ.
パワーポイントの内容は,2つの歌への導入,たとえば,「皆さんは,どんな動物が好きですか?」,「皆さんは,ゾウが好きですか?」などと導入してから,「ぞうさん」の歌を紹介するといった形にした.また,日本語の歌詞と,フランス語が全く分かってないなりに,一応DeepLで翻訳して多少修正したフランス語訳の歌詞を並列して示すようにした.
本番では,やはり,フランス語訳はかなり奇妙だったようで,先生が,適切なフランス語に言い直して紹介してくれた.自分のフランス語のできなさを恥じ入るとともに,担任の先生の偉大さに感謝した.ぼくには,まるでわからない感覚だけど,二人称をTuで書いていたら,先生はVousにしていた.初めてやってきたおっさんが,子どもたちに親しみを込めて話しかけるとしても,いきなりTuではおかしいのだなと理解した.
ちょっと,脱線する.1982年.私が中2の時に,父親のサバティカルで,米国ミシガン州のミシガン大学のあるAnn Arborに1年間いた.そのとき,母が,やはり当時年長から小学1年だった弟のクラスで,日本文化について紹介してほしい言われて,同じようにサバティカルで来ていたもう1人の日本人とともに,日本の文化について紹介しに行っていた.
母は,こういうことがあるものだと事前にわかっていたようで,日本から着物は無理だけど浴衣を持って行っていた.それを着て,日本のお茶をいれた(いわゆる煎茶だが,当時は日本の煎茶など米国内でほとんど知られていなかったはずなので,紅茶のように砂糖を入れて飲めるように,砂糖も準備して行ったと聞いている)ようである.他にも何かしたと聞いているが忘れてしまった.
そんなわけで,日本の歌を紹介してほしいと言われたときに,ぼくは,少しときめいてしまった.自分が,今度は親の立場で,子どもの前に立つのだなと,非常に感慨深かった.
「ぞうさん」は,冒頭の「ぞうさん,ぞうさん」というフレーズは,たいへん歌いやすく,みんなすぐにまねして歌えた.しかし,次の「おはながながいのね」は,ダメだった.まず,「おはな」には,フランス語話者が苦手とするhが含まれていること,それから,n音が繰り返される(な,な,が,の,ね)ことから,混乱することが分かった(「が」は,ngである).
「ことりのうた」は,オノマトペの部分,「ピピピピピ,チチチチチ」だけを歌うように指示した.また,YouTubeには,振り付け付きの映像もあったので,それを見せながらやったら,これはかなりの好評だった.その後の「ピチクリピ」も教えなくても歌っていた.海外で子どもたちに日本の歌を紹介するという課題が出たら,「ことりのうた」は,おすすめである.
次女も,パパが来て,日本の歌を教えるというが楽しかったようで,ふだんは,たぶん,フランス語が分からないなと思っているのだろうけど,この日は,立場が逆転.次女なりに溜飲を下げていたのかもしれない.
担任の先生の意図も,しかし,異文化体験を通して,自分たちが知らない異文化があることや,最初から異文化にすぐに適応できるわけではないということを示したいというところにあったようで,そのことは,私に事前にも事後にも説明された.
歌の紹介が終わった後に,1人1人の名前を書いた短冊のようなもの(開始直前に頼まれたやつ)を配って,それを自分で書いてみるようにという課題をやっていた.子どもたちは,初めてアルファベ以外の文字を見る子もいたようで,みんな楽しそうにカタカナを書いていた.そして,書けたものを私に見せに来た.カタカナは,ひらがなよりは書きやすいと思うが,ほとんどの子たちが,お手本を見ながら,きちんと書けていた.自分の名前が,こんなふうに書けるのかというのは,自分が子どもだったとしても,わくわくする体験なのだろうと思う.
その中で,それぞれの子どもたちの感じというのも少しわかった.わんぱくな子たちは何人かいて,驚いたのは,先生は,私語をしたり,遊んだりする子に対して,教室の後ろに立たせたり,さらに騒ぐと,教室から退室させたりするような指導をしていた.ただし,数分であり,ずっとではなかった.ぼくの基準からすれば,その程度で立たせるのかという感じもした.50年前の小学校の様子が目の前で再現されているような感じがした.意外に「古い」教育スタイルなのだと思った.そういうこともあってか,多くの子どもたちは,真面目に課題に取り組んでいた.その中でも,自分の名前を書く時に,とても知的好奇心の強い女の子が一人いて,明らかに目の輝きが違っており,「これでいいのかな」「これ(書いたもの)あげるわ」とコミュニケーションも上手で,特に印象深かった.
細かいことを言えば,ああすればよかったということはあるかもしれないが,かなりきちんと準備をしていたので,先生の意図に応じて対応を変えることもできたし,全体としては成功だったのではないだろうか.
ところで,上に書いたポートフォリオは,その日の夕方にあった.まだ,名前の短冊が前の黒板のところにまとめて飾ってあり,子どもたちは,自分の親に,「これはぼくの/私の名前で,こうやって書くんだよ」と自慢げに示していた.ある親は,「この文字は,あなたが書いたの?」と聞きに来たり,別の親は,「私の名前も書いてよ」と言ってきたりと,親同士の交流にもなった.一粒で二度おいしい感じだった.これは,印象深い体験として,自分の中にずっと残りそうである.