在外研究 in スイス…5月中旬から6月末

長らく更新しなかったので,このあたりで.
といっても,5月中旬以降は,ほぼルーチン生活になり,時折,何かが起こるという感じだったので,特段に書くこともなくなってきたという感じだ.

滞在許可証と日本・スイス社会保障協定

まず,長くかかっていた滞在許可証発行までの手続きだが,6月5日(水)にOCPM(Cantonal Population and Migration Office)に行って,写真と指紋を採ってもらいに行き,およそ1週間後に,滞在許可証が届いた.ようやくこれで何とか不法滞在者にならずにすんだ.

と思ったら,もう1つ,5月中旬に,ジュネーヴ州の Service de l’assurance-maladie (健康保険サービス,SAM)というところから,健康保険を6月末までに買うようにという手紙が届いた.

曰く(DeepLによる翻訳):
スイス健康保険法(LAMal)では、スイスに居住する人は誰でも、スイスに居住すると同時に健康保険と傷害保険に加入することが義務付けられています。LAMalでは、カントンに到着した日から3ヶ月以内に、本人および扶養家族の健康保険に加入することが義務付けられています。
この3ヶ月の期間内に保険に加入した場合、LAMalは、スイスに入国した日から3ヶ月間有効です:

  • 3ヶ月以内に保険に加入した場合:加入は、ジュネーブに正式に居住した日に遡って有効となります。
  • その日から保険料をお支払いいただきます。
    より簡単に手続きしていただくために、以下の手順をお勧めします:
    1) 保険料を比較し、自分に合った保険会社を選ぶ(付録1-保険料表参照)。
    2) 加入申込書(付録2)と保険会社の住所リスト(付録3)を使って、希望する保険会社に加入を申し込む。
    3) 健康保険局(SAM)に健康保険証書のコピーを送付する。
    スイスに到着してから3ヶ月以内に、健康保険証書のコピーを送付する。
    3ヶ月以内に健康保険に加入しない場合:
  • 健康保険会社に自動的に登録されます。
  • 加入が遅れた場合、保険会社から違約金が請求されます。
  • 医療保険は強制加入日から開始されます。
    スイスで社会健康保険(基本保険)の認可を受けた保険会社は、あなたの年齢や健康状態にかかわらず、無条件で加入を受け入れる義務があります。同様に、保険料がどのようなものであっても、保険会社は同じ医療サービスを提供します。補足的な保険も提供されますが、これは強制ではありません。

さて,これについては,日本人は,言われたとおりに健康保険を支払う必要はない.日本とスイスの間に,「日・スイス社会保障協定」というのがある.これは,短期的にスイスに駐在するような人を対象として,社会保険料の二重払いを避けるための協定である.もちろん,スイスから日本に来る人についても適用されることになる.

この協定に日本出国前に気づいて,私学共済を通して(←これは,私立学校に勤めている人の場合,それ以外の場合は,日本年金機構に尋ねた方がよい),スイスでの健康保険に加入しなくてもよいように書類を準備しておいた.

そういうわけで,まず,私学共済に電話して,こういう手紙が届いたのだけど,出国前にもらった書類を提出すればよいことを確認した.それでOKということだったので,書類を携えてSAMのオフィスに行ってみた.すると,…誰もいない.あるのは,何種類かの書類と,受付箱のみ.とりあえず,心配性のぼくとしては,オフィスでこれで間違いないか確認してから,投函したいと思い,その場にあった「問い合わせ」用紙をもらって帰った.
その夜,その電子版(PDF)もあることがわかり,それに記入して,所定のメールアドレスに送った.ところが,しばらく待っても返事がない.それで,もう一度,「以前問い合わせたのだけど…」とメールしたが,やはり返事がない.そしてもう一度.それでも,返事がない.
というわけで,困り果てて,ジュネーヴ大学のウェルカム・センターの人にメールしたら,やってみますということで中に入ってもらった.すると,あっけなく,ウェルカム・センターに送ってくれたら出しておきますと言われたので,書類をスキャンしてPDFにして出したら,それでOKですということになり,数日後に,うちに健康保険免除の手紙が届いた.

いやー,権威主義ですね.個人で出しても何の反応もないけど,ジュネーヴ大学という然るべき機関が中に入ると,あっけなくことが進む.これまでも,何かそんな感じだったけど,まあ,どこの社会でもそうかなとは思うけど,こんなものである.そういうわけで,スイスに在外研究で来る人や,国際機関などで駐在に来る人は,保険については,自分でやろうとするより,所属機関に中に入ってもらった方がよさそうということは,残しておきたい.
ともあれ,これで何とかなったのでよかった.そして,これで,法的な手続きについては,一応一通り完了ということになった.やれやれである.

LIVES (Swiss Centre of Expertise in Life Course Research) の LIVES DAY in Geneva ミーティング

5月30日(木),ジュネーヴ大学でLIVES Dayが開催された.大学院生たちの研究報告会というようなものと思えばよいだろうか.

LIVESとは,次のような組織である.
スイスのジュネーヴ大学とローザンヌ大学のライフコース研究に携わる博士課程以上の研究者は,LIVESセンターのメンバーになることができる.LIVESセンターのメンバーになると,次のような特典がある.以下,https://www.centre-lives.ch/en/membres-lives より.

  • LIVESセンターの様々な活動や支援について定期的に情報を得ることができます。
  • ライフコースに関するプロジェクトをLIVESセンターに関連づけることができます。
  • LIVESセンターのワーキンググループに参加することができます。
  • ライフコースに関するLIVESのトレーニングプログラム(博士課程プログラムおよび個別モジュール)に参加することができます。
  • ローザンヌ大学およびジュネーブ大学のLIVES会員は、研究助成金および国際研究者招聘プログラムの恩恵を受けることができます。

それはそれとして,5月30日に,LIVES Dayというイベントが開催され,それに少しだけ参加してきた.当日のプログラムは,こちら(PDF).昼から,まず,LIVESの概要説明と,キーノートがあり,その後,3つのセッションに分かれて研究報告が行われた.研究報告といっても,1人10分くらいの持ち時間で,その間に報告と質疑応答が行われるので,あまり立ち入った感じにはならなかったが,ジュネーヴ大学とローザンヌ大学の大学院生やポスドクくらいの人たちが,どういったことをやっているのかがチラッと分かった.
発表は,全て英語で,発表者がジュネーヴ大学とローザンヌ大学だから,フランス語でもよさそうなところ,あえて英語でやっているところが,教育の方向性を指し示しているように思われた.発表者は,実はロシア人だったり,必ずしもフランス語が母語の人ばかりではないのだが,それでもみんな英語が堪能で,(ぼくが言うのも何だけど)特に訛りがきついこともなく,かなり美しい英語を話していたので驚いた.

日本の大学院教育も考えないといけないなと思わされた.ぼく自身は,博士課程まである大学に専任の教員としては所属したことがないので何とも言えないが,日本の博士課程で,ふつうに英語で議論してふつうに意思疎通ができる程度になることってあるのかなと思った.発表者の研究内容というか意図みたいなものは,実質5分程度の発表では,正直なところ分からなかったが,英語での流暢な発表というところが印象的だった.

子どものお友だちの誕生会

次女(5歳,年長)の日本語学校のお友だちの誕生会が2週連続で続いた.いずれも一軒家で,立派なおうちであった.あんまり詳しく書くと判別できそうなのでやめておくが,いずれも,夫がこちらの人,妻が日本人というおうちだった.大人が十数人,子どもはもっとたくさんというようなもので,日本ではこんなに人が一軒のうちに集まるなんてことは,なかなかない.子どもたちが駆け回り,大人たちは飲みながら談笑する.こちらの誕生会がこんなふうに行われるのだなということは分かった.アメリカのファミリー・パーティに近い感じだった.アッパーミドルクラスの生活が垣間見られた.帰りは,ボートで送ってもらいました.

追記

子どもたちのポートフォリオについて

学期末・年度末となり,子どもたちの学校では,ポートフォリオの日時が設定される.これは,親が子どもたちの成績や生活などについての説明を受け,来年度進級できるかどうかの判断について(それでよければ)署名するという会である.
日本だと,通知表が各自に配られる.私がこれまで小学校から高校まで経験してきた中では,落第して上の学年に上がれなかったケースというのは周りにはなかったので,基本的に上の学年に進級できるものだと思う.先生の判断のみで進級は決定され,親がしゃしゃり出る余地はないのだと思う.
一方,形式的にかもしれないが,スイスでは,親が学校に出向いて,子どもたちの進級の対象となるようなものの評価(たとえば,次女の場合には,描いた絵についての教員の評価や,運動能力などに対する評価だった.おそらく学年がもっと上になれば,試験の成績なども評価対象となるのだろう)が1つ1つ添付され,それをもとに総合評価がなされたA4で1枚程度の用紙に署名させられる.評価用紙とは別に,進級の基準に関わる記述も全学年のものを一度に記した4ページほどの書類も併せて示され,自分の子が,基準に基づいて適正に評価されているかを親は確認することになる.たいへん行き届いた制度であると思うが,親が署名をさせられるというのは,なかなか緊張する体験であった.
私は,長女の時には学会に行っていたので妻に任せてしまったが,次女の時には1人で出向いた.次女はまだ6月までは年中ということになっていて,この学年は,基準書によると,基本的に上に上がれると書いてあったのだけど,それでもきちんとした評価が示されており,それを翻訳機で読みながら署名するのは,なかなかたいへんで緊張を強いられるひとときであった.
次女の場合は,学年が2部に分かれていて,数人の子どもたちの親が一度に教室に行って,資料や書類に目を通すのだった.およそ1時間半ほどの間に,適宜目を通して署名して,終われば帰って行くという形式だった.長女の場合は,1人1人の児童に時間が割り当てられていたようで,英語の通訳の人も交えて話があったようである.
長女の場合は,6月までは1年生ということになっていて,まだ簡単なことではあるが,事実上勉強が始まっているので,どうなることやらと学会に出ながらドキドキしていたが,無事に上に上がれるようで,胸をなで下ろした.長女はプライドの高い子なので,ここで語学を理由にもう一度学年をやり直しとか言われると,ちょっと困ったことになりそうだと思っていたので,本当によかった.
スイスでは,このような形で年度末の評価と進級判定が行われるのだと学習し,一つの制度を体験した.ともあれ,2人とも予定どおり上の学年に上がることができ,それは,とてもよかった.

次女のクラス(年中)で,日本の歌を教えたこと

6月21日(金),午前9時から,次女の年中クラスに行って,日本の歌を教えてきた.
依頼があったのは,その前の週の木曜日,朝次女を送っていったら,担任の先生から,日本の歌を紹介してもらえないかとのことだった.音楽にはある程度の自信はあるので,一つ返事で了承した.
しかし,改めて,どうしようかと考えてみると,なかなか難しいことでもあった.
まず,現代の流行歌ではなく,古めかしいが童謡にしようと思った.以前,ジュネーヴの繁華街のfnacに行ったときに,膨大な数のマンガがフランス語に翻訳され,いったい本棚いくつ分あるのだろうと思うくらい大量のマンガのコーナーが設けられていた.また,アニメについても,同じような状況だった.フランスで日本のマンガやアニメがかなりの人気があることは知っていたが,スイスのフランス語圏にも,同様に影響はあることがわかった.子どもたちの持っているものを観察しても,ピカチュウが付いているものを持っていたり,日本のマンガやアニメの認知度は,非常に高いと思われた.しかし,これだけ作品数が膨大にあると,何を紹介するにしても,一部の子しか知らないということになるだろう.私も,マンガやアニメには疎いので,無理する必要はないなと思い,童謡とした.
童謡は,実は,かなり得意分野である.子どもの頃,数多くの童謡のレコードがあり,自分であれこれとかけながら聞いていたからだ.それから50年も経てば様変わりしているかというと,新しい曲もあるのはあるが,それほど大きく変わっているわけではないことがわかる.もちろん,あまりに古くさい曲,つまり,時代性が強すぎて現代ではそのもの自体がなかったり,理解できなかったりするものは,現代のリストからは消えていた.しかし,おおむね50年前と変わりないことがわかった.
では,何を紹介すればよいだろうか? 基準は,1.比較的ゆったりしていて歌いやすいこと.2.テンポは速めで全部を歌うことは無理でも,オノマトペの部分であれば楽しく歌えそうなこと.というあたりを考えた.そして,基準1を満たすものとして「ぞうさん」,基準2を満たすものとして「ことりのうた」とした.
著作権としては,学校等で教える場合には,やや緩くなることから,楽譜やYouTube映像を出典を明記する形で使わせてもらうことにした.日本の著作権とスイスの著作権との関係がどうなのかについては,不明な点もあるが,まあ,おおむね準拠ということでよいのだろうと考えた.海外学会で発表するような基準でよいのだろうということである.
月曜日に楽譜にローマ字表記で歌詞を記入したものを渡しておき,金曜日までに,紹介用のパワーポイントとを準備した.前日になって,担当教員から,日本語の表記(ひらがなや漢字交じり表記)についても教えてほしいというような要望があり,紹介用のパワーポイントは,ひらがなのみ,漢字交じり,フランス語の3段重ねで作成した.当日も,朝行ったら,9時までにクラスの子どもたちの名前を日本語で(カタカナで)書いたものを用意してほしいと言われ,なかなかたいへんだった.
本番では,PCとこちらで何十フランで買ったキーボードを携えて行った.キーボードは,実際には,あんまり使わなかったかな.もちろん,ちゃんと弾き語りできるようにはしていきましたよ.
パワーポイントの内容は,2つの歌への導入,たとえば,「皆さんは,どんな動物が好きですか?」,「皆さんは,ゾウが好きですか?」などと導入してから,「ぞうさん」の歌を紹介するといった形にした.また,日本語の歌詞と,フランス語が全く分かってないなりに,一応DeepLで翻訳して多少修正したフランス語訳の歌詞を並列して示すようにした.
本番では,やはり,フランス語訳はかなり奇妙だったようで,先生が,適切なフランス語に言い直して紹介してくれた.自分のフランス語のできなさを恥じ入るとともに,担任の先生の偉大さに感謝した.ぼくには,まるでわからない感覚だけど,二人称をTuで書いていたら,先生はVousにしていた.初めてやってきたおっさんが,子どもたちに親しみを込めて話しかけるとしても,いきなりTuではおかしいのだなと理解した.
ちょっと,脱線する.1982年.私が中2の時に,父親のサバティカルで,米国ミシガン州のミシガン大学のあるAnn Arborに1年間いた.そのとき,母が,やはり当時年長から小学1年だった弟のクラスで,日本文化について紹介してほしい言われて,同じようにサバティカルで来ていたもう1人の日本人とともに,日本の文化について紹介しに行っていた.
母は,こういうことがあるものだと事前にわかっていたようで,日本から着物は無理だけど浴衣を持って行っていた.それを着て,日本のお茶をいれた(いわゆる煎茶だが,当時は日本の煎茶など米国内でほとんど知られていなかったはずなので,紅茶のように砂糖を入れて飲めるように,砂糖も準備して行ったと聞いている)ようである.他にも何かしたと聞いているが忘れてしまった.
そんなわけで,日本の歌を紹介してほしいと言われたときに,ぼくは,少しときめいてしまった.自分が,今度は親の立場で,子どもの前に立つのだなと,非常に感慨深かった.
「ぞうさん」は,冒頭の「ぞうさん,ぞうさん」というフレーズは,たいへん歌いやすく,みんなすぐにまねして歌えた.しかし,次の「おはながながいのね」は,ダメだった.まず,「おはな」には,フランス語話者が苦手とするhが含まれていること,それから,n音が繰り返される(な,な,が,の,ね)ことから,混乱することが分かった(「が」は,ngである).
「ことりのうた」は,オノマトペの部分,「ピピピピピ,チチチチチ」だけを歌うように指示した.また,YouTubeには,振り付け付きの映像もあったので,それを見せながらやったら,これはかなりの好評だった.その後の「ピチクリピ」も教えなくても歌っていた.海外で子どもたちに日本の歌を紹介するという課題が出たら,「ことりのうた」は,おすすめである.
次女も,パパが来て,日本の歌を教えるというが楽しかったようで,ふだんは,たぶん,フランス語が分からないなと思っているのだろうけど,この日は,立場が逆転.次女なりに溜飲を下げていたのかもしれない.
担任の先生の意図も,しかし,異文化体験を通して,自分たちが知らない異文化があることや,最初から異文化にすぐに適応できるわけではないということを示したいというところにあったようで,そのことは,私に事前にも事後にも説明された.
歌の紹介が終わった後に,1人1人の名前を書いた短冊のようなもの(開始直前に頼まれたやつ)を配って,それを自分で書いてみるようにという課題をやっていた.子どもたちは,初めてアルファベ以外の文字を見る子もいたようで,みんな楽しそうにカタカナを書いていた.そして,書けたものを私に見せに来た.カタカナは,ひらがなよりは書きやすいと思うが,ほとんどの子たちが,お手本を見ながら,きちんと書けていた.自分の名前が,こんなふうに書けるのかというのは,自分が子どもだったとしても,わくわくする体験なのだろうと思う.
その中で,それぞれの子どもたちの感じというのも少しわかった.わんぱくな子たちは何人かいて,驚いたのは,先生は,私語をしたり,遊んだりする子に対して,教室の後ろに立たせたり,さらに騒ぐと,教室から退室させたりするような指導をしていた.ただし,数分であり,ずっとではなかった.ぼくの基準からすれば,その程度で立たせるのかという感じもした.50年前の小学校の様子が目の前で再現されているような感じがした.意外に「古い」教育スタイルなのだと思った.そういうこともあってか,多くの子どもたちは,真面目に課題に取り組んでいた.その中でも,自分の名前を書く時に,とても知的好奇心の強い女の子が一人いて,明らかに目の輝きが違っており,「これでいいのかな」「これ(書いたもの)あげるわ」とコミュニケーションも上手で,特に印象深かった.
細かいことを言えば,ああすればよかったということはあるかもしれないが,かなりきちんと準備をしていたので,先生の意図に応じて対応を変えることもできたし,全体としては成功だったのではないだろうか.
ところで,上に書いたポートフォリオは,その日の夕方にあった.まだ,名前の短冊が前の黒板のところにまとめて飾ってあり,子どもたちは,自分の親に,「これはぼくの/私の名前で,こうやって書くんだよ」と自慢げに示していた.ある親は,「この文字は,あなたが書いたの?」と聞きに来たり,別の親は,「私の名前も書いてよ」と言ってきたりと,親同士の交流にもなった.一粒で二度おいしい感じだった.これは,印象深い体験として,自分の中にずっと残りそうである.