Sunbelt 2024

6月下旬に,社会ネットワーク分析の国際会議であるSunbelt 2024に行ってきました.

遡って2月,まだ日本にいる頃ですが,発表に応募しました.2年ぶりの応募でした.前回はコロナ禍で,まだオンライン開催だったかハイブリッド開催だったかで,ちょっと海外に出かけていく気にもなれずオンライン参加でしたが,今回は,スイス行きも決まっていたので,そこから会場のあるエジンバラまでは近いなと思い応募しました.スイスに行くのも,コロナが始まって以来の海外だったのですが,何か,わざわざ海外に出かけていって,20分程度の発表をするだけで帰ってくるというのが煩わしく思うようになって,海外はご無沙汰でした.今回も,スイスからだから行く気になったという感じでした.

ともあれ,要旨はアクセプトされて,ポスター枠に回されず,口頭発表となりました.要旨だけではありますが,3人の人からのレビューがあって,10点満点で点数が付けられる形になっていましたが,そのうち1人は10点をくれたりして,ちょっと気持ちが高ぶりました.

発表内容は,このところこればかりですが,御柱祭についてです.出発数日前からパワーポイントの準備を始め,ところどころ再分析をしながら,おおむね順調に進んでいきました.しかし,2つ苦しんだところがありました.
1つは,御柱祭の背景をどこまで説明するか,です.ほとんどのオーディエンスが,日本のことも神道のことも御柱祭のことも知らないと想像されました.どこまで説明する必要があるのかです.考えたことは,リサーチクエスチョン(RQ)を提示しますが,そのRQのために必要な範囲のことを説明し,それ以外のことは割愛するという方針です.書いては少し間を置き,RQまでのところを読み返して,不足はないか,不要なことまで言っていないかということを自問自答しながら進めていきました.これは,結果的によかったと思います.これまで,海外で日本国内のことについて発表することを躊躇することもありました.しかし,今年は在外研究中で時間もあったことから,そのあたりをよく考え,うまく形にできたのではないかと思います.
もう1つは,最後のオチをどうするか,です.関西人なので,オチのない話はダメみたいな思い込みもあって,これには最後まで苦しみました.別に面白おかしくするということではなく,なるほどなと腑に落ちる形にするということです.結局出発に間に合わず,最後にオチを考えたのは,発表前夜でした.めっちゃいいオチとまではいかなかったですが,まあこんなものかというくらいにはなりました.

報告は,Networks & Culture というセッションにおいて行いました.発表自体は,15分+質疑5分のところ,事前の練習段階では17分だったので,まあそれでいいかという感じで臨みました.およそそのくらいの感じで終わったのでよかったかなと.考えながらだと間に合わないと思ったので,原稿読み上げ形式で行きました.もちろん,一文は短く,パワポ上で指示するところは記入,ブレスの位置も記入,と何らそれとは感じさせないくらいにはしておきました.だいたい仕込みどおりだったと思います.
質疑もすぐに手が上がって,滞りなくすみました.
次の発表者が現れなかったので,一時休止となり,その20分くらいの間に,セッションのオーガナイザーの人からいろいろと質問を受けました.背景を最小限度にとどめたので,やはり,そのあたりのことをいろいろと聞かれました.

そのセッションでは,韓国のオペラ歌手のネットワークと成功とか,文化資本と社会関係資本との関係について韓国のデータを用いて分析したものなどがありました.後で分かったのは,それらが同じ指導教員のもとにいる大学院生の発表ということでした.指導教員の人も来ていたので,セッション後,名刺交換をしていろいろと話ができました.これからも連絡を取り合いましょうということになったので,今後が楽しみです.

さて,合間を縫って,エジンバラの観光も楽しみました.エジンバラ城に入るには事前予約が必要という話を聞いたので,その翌日の空きを見たら,ちょうど1人分だけ12時半の枠が空いていて,それを予約しました.少し前に到着しましたが,すぐに入れてもらえました.ガイドブックを買って音声ガイドを借りて出発しました.すぐに分かったのは,午後1時ちょうどに,大砲から空砲を撃つというイベントが毎日あるということでした.その場に行って20分ほど待ち,規制線から2列目くらいから見ることができました.思ったより音は小さかったので,ビビってビデオを写す手がぶれるみたいなことはありませんでした(笑)
その後は,中を見て回りましたが,城内のあちこちの建物が博物館となっていました.それが,見事に全て「戦争博物館」というべきもので,スコットランドがイングランドと歴史的にどんな争いを繰り広げてきたか,また,大英帝国となってから,スコットランドの部隊が,どの戦争でどういう活躍をしたかということが延々と説明されるというものでした.高校の世界史で習うような内容もありましたが,高校時代だと,イングランドとスコットランドの細かい区別などがついていないところもありました.しかし,より細かい説明があり,なるほどそういうことだったのかと,納得することが多かったです.
気づいたこととしては,報償として配られたメダル類がたくさん展示されていたことでした.ひるがえって日本のことを考えてみると,戦功を上げてもメダルという形で報償が与えられることはなかったと思います.日本各地の地元の博物館に行っても,明治以前にメダルが与えられるということはなかったのではないでしょうか? 殿様から下されたお礼の書はよく見る気がしますが,メダルはないと思います.書は朽ちたり焼けたりして残らないものも多いと思いますが,メダルは数百年にわたって残るものです.あちらの博物館にもこちらの博物館にも,これでもかというほどメダルが展示されていて,西洋の戦争の一つの形に気づけました.
また,建物の一つは,捕虜の収容所となっていたところで,その内部の様子も復元されていて,当時の様子が忍ばれました.ただ,これについては,スイスに来てから行った,シヨン城にもやはり捕虜や囚人の牢があり,その様子があまりにもそっくりでした.城というものの一つの機能として,捕虜の収容というのは西洋のどこにでもあったのだなと思いました.ただ,スコットランド城で面白かったのは,捕虜たちが,毎日の食べ物をお金を出して買っていたということでした.どうも,捕虜を働かせ,それに対して少額ながら対価を払うようなやり方が行われていたようです.何というか,資本主義国なんだなと感心した次第です.だから,中には相当な腕前を持つ工芸品を作る捕虜もいたようで,彼らが作ったとされる品々の展示もありました.そういった捕虜は,少しでもペイがよかったのだろうか,それとも,その分は搾取されて,ペイは他の捕虜たちと同じくらいしかもらっていなかったのだろうか,などと考えたりしました.
ともあれ,エジンバラ城,観光のつもりが,ものすごく勉強になりました.

エジンバラで最悪だったのは,交通ですね.これは,最悪でした.
最初に空港に降り立ったときから,どうやって会場の大学まで行くか調べましたが,どうしてもバスを乗り継がないと行けない模様.しかも,ルートはいくつもあって,どれがよいのか分からない状態でした.
ひとまず,1回乗り継ぎで行けそうなルートで行くことにし,途中のバス停で降りました.ところが,乗ろうとしていたバスが,目の前を素通りしてしまいました.あっという間のことなので,唖然としてしまいました.後から聞けば,乗るよという意思表示をしないと,行ってしまうということでした.日本でもジュネーヴでも,とりあえず意思表示はしなくても,バス停に人がいたら止まるし,そういうものだと思っていたら,全然違ったというわけです.同じ西洋ということで,まさかそんな違いがあるとは思っていませんでした.不覚でした.
ともあれ,その見るからローカルなバス停から,会場まで行くかを再度調べ,何とか,そこから1回乗り換えで行けそうだということが分かりました.何とか会場にたどり着きましたが,空港を出てから,随分と時間が経ってしまいました.
その日は,夜に街に出ていくことになるかなと思っていたので,一日券を買っておいたのはよかったですが,そうでなければ,乗り継ぐごとに2ポンドとかを払うことになって,とんでもないことになっていたかもしれません.そのチケットのシステムも非常に分かりにくいものでした.バスの一日乗車券といっても,いろいろあるのです.まず,Lothianという会社が運営するバスが一番多いようなのですが,小さいバス会社もあり,Lothianの一日乗車券は,他社のバスには適用されません.しかし,素人には,Lothianかそうでないかを,グーグルマップのバスの系統(番号)から判断することは,はっきり言って不可能です.後日,バスが来てみたら,Lothianとボディに書いていないもので,乗れなかったこともありました.また,バスにも,通常便と深夜便の区別があって,普通の一日乗車券は通常便のみで,より高額な一日乗車券は,両方乗れるというような区別もありました.最初,空港のバス停にあった看板には,普通の一日乗車券の記載がなかったので,高額な方を買ってしまいました.
そうかと思えば,バスの一日乗車券でも,トラムには乗れるとか,ただし,トラムも,エジンバラ市域の設定があり,エジンバラ空港はその範囲から外れているので,空港に行くには別料金とか,かなり複雑でした.
ともかく,エジンバラのバスは,旅行客にとってはカオスです.事前に『地球の歩き方』を手に入れておけばよかったのかもしれませんが,それに書かれていたかは分かりません.ようやく,スイスに発つ日になって,全容を理解したという感じでした.

そしてまた,今回たいへんだったのは,やはり交通機関がらみですが,飛行機でした.
出発当日,7時半頃の飛行機だったので,5時頃に出発というつもりにしていました.そして,まだパワーポイントの準備を深夜までしていたところ,日付が変わる頃にスマホの通知が鳴って,何かと思ったら,予約便がキャンセルになったとのことでした.それから10分ほどして新しい通知が来て,代わりの便が提案されていました.当初の予定では,昼前にエジンバラ空港に到着する予定でしたが,それだと到着は夕刻になってしまい,その日は何も見られないことになってしまいます.そこで,変更を試みました.
最近は,チャット形式でやることになっているようで,チャットを使いながら変更を試みました.ところが,しばらくすると,向こうが提案してきたその変更案の便がキャンセルになったとのことで,また一からやり直しに.そうすると,チャットの方も状況が飲み込めていないようで混乱していて全く埒があかない状態に.そこで,結局のところ,電話番号を調べてそこにかけて,深夜2時とかいう時間にしどろもどろになりながら,ようやくアライアンスも違う別の航空会社の便に変更してもらうことになりました.それだと,エジンバラ空港には,昼前に到着するということで,いいかなと思いました.
ところが,空港に行ってみて気づいたのが,どうやってチェックインしたらよいのか分からないということでした.アライアンスが違うからか,オンラインチケットは発行されていないようでした.そこで,もとの航空会社のカウンターに並んでみましたが,ここではないと言われ,別のカウンターに回されました.確かに小さな字で,変更後の航空会社の名前も書いてありましたが,そんなんじゃ気づかないよ.しかしともあれ,何とか航空券を手に入れました.
そして,乗り継ぎのブリュッセルに到着.到着寸前になって,客室乗務員から,乗り継ぎ時間が短いので,Expressと書いた札をあげるから,入出国審査のところで,Express Lineに行け,そして,急いでと言われました.降りて調べてみると,まあ見事に,次のゲートまで,こっちの端からあっちの端みたいなことになっており,その途中で入出国審査,その間30分強ということで,小走りに走りましたが,かなりヘロヘロ.
一睡もしておらず,空港で走り,バスの乗り継ぎはうまくいかず,会場の大学には到着したものの,発表会場に着いたら,睡魔が….もはや,余力はなかったです.この無茶をした影響は,翌々日くらいまで残り,夜はすぐに眠たくなるので,パワーポイントの最後の準備は,最終日直前になってしまったというわけです.本当に,今回は,交通機関にやられました.

それでも,着いたその日は,ジュネーヴ大学に呼んでくれたEric Widmerと,フランス人たちのグループで飲みに行きました.これは愉快でした.
まず,フランスでは,トゥールーズ大学に社会ネットワーク分析の拠点があることを知りました.そこのファカルティや大学院生と仲良くなれてよかったです.話の内容は,いろいろありましたが,一番印象に残っていることとしては,その週末にフランスで行われる国政選挙についてです.事前情報からも,極右政党が政権を取るかもしれないということでしたが,大学の教員としては,首にされないまでも,研究費が抑制されたりするのではないかと心配していました.私の方からは,日本の国立大学の研究費がひどいことになっているというような話をしましたが,同じようなことになるんじゃないかと心配していました.半ば冗談でしょうが,Ericに,首にされたらスイスに呼んでくれよとか言って笑いを取っていました.幸運を祈るしかありませんね.また,フランス人からは,スイスに行くと,スローでたまらないという話を聞きました.何でも,スイス人の話すフランス語は遅いのだそうです.体感として,0.8倍速くらいと言っていました.みんなコロナ禍でオンライン講義の準備をしているので,ぼくも,詰め込みすぎて(ぼくが年を取ってしゃべりが遅くなっているということもあるかな)長くなってしまい,1.2倍速くらいにして,時間を詰めるということがありました.1.2倍速になると,何か,シャキシャキとしゃべる感じになっていいんですよね(苦笑) そんなわけで,0.8倍速というのは,おおむねそのくらい遅くした感じになるので,想像がつくだけに,笑えました.Ericも,否定はせず,苦笑していました.

2日目の夜は,日本人グループでビストロへ.3日目の夜は,大人しく自室で.最後の夜は,獨協の藤山さんと中華に行きました.最後の夜は,自分の誕生日でした.誕生日に学会発表というのは,これまでになかった経験ですが,藤山さんに祝ってもらって,最後の最後に気分も解放され,ようやく心置きなく楽しむことができました.まあ,一生に一度くらいこういう誕生日もあってよいのかもしれません.

ともあれ,予想していたよりも,はるかにたいへんな道中でした.得たものも大きかったですが,たいへんさの方が上回っていたかな.ジュネーヴのうちに帰ってきたのは,午後2時頃でしたが,その日は,ほとんど使い物にならず,寝ていました.

来年は,パリ開催だとか.日本からだし,どうしようかな.現状では,もうあんまり行きたくない思いが強いです.でも,一年に一度くらいは出ないとね.