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    <title>辻 竜平（Ryuhei Tsuji） Ph.D.</title>
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辻竜平（信州大学・人文学部・社会学研究室・准教授）の「個人サイト」です．
「大学公式サイト」以外の情報「も」掲載する場として，このページを設けました．
部分的には「大学公式サイト」とかぶる内容を載せています．
こちらにはそれ以外の情報（「大学公式サイト」には載せにくい私的なものなど）もあります．

For Visitor #






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    <title>『その英語，ネイティブはカチンときます』『その英語，ネイティブは笑ってます』を読んで</title>
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    <published>2010-08-20T02:01:57Z</published>
    <updated>2010-08-20T02:38:52Z</updated>

    <summary>　最近，新書版で，和製英語や，日本人の英語の癖について取り上げるものが多くなって...</summary>
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        <![CDATA[　最近，新書版で，和製英語や，日本人の英語の癖について取り上げるものが多くなっている気がする．これらは，先日立ち寄った書店で見つけたものを，あまり吟味することなく買ったものである．<br /><br />　留学を経験した私であるが，常々，専門の論文の英語よりも，日常の英語の方がずっと難しいと思っていた．問題は，英語にもあるニュアンスである．ここで取り上げた2冊は，いずれもそういった点について，具体的な例を挙げてニュアンスを解説してくれる．受験英語では到底学べない内容である．こういった本がもっと早くからあれば，留学中のさまざまな行き違いも避けられたことがあったかもしれない．実際，文法が間違ってはいないはずなのに，けげんな顔をされたりすることが，留学当初はしょっちゅうあった．本書を読むと，「ああ，そういえば，こういう言い方をしたときに，変な顔をされたなぁ」と思うことが多かった．その意味で，これらの本の内容は，私が数年間留学をしていて現場で学んできたものとほぼ同じで，かなりの部分は首肯できるものであった．海外に出て行く予定のある人などは，持っておいて損はない．全体的には，よく書けているという印象であった．<br /><br />　いくつか注文をつけるとすれば，同じフレーズでもイントネーションに注意せよといったことが書いてあるところが結構あるのだが，実はそれをイメージできるかどうかは，結構難しいかもしれない．私も留学していたから，ああじゃなくてこうなんだよな，と想像できるのだが，ただ「注意せよ」だけでは，注意のしようがないのではないだろうか．願わくは，CD-ROM付きの方がよかったと思う．ただ，新書版という制約上，これは無理なのかもしれない．<br />　それから，シチュエーションは一応説明されてはいるし，全体としては書き言葉より話し言葉について書かれているのだが，書き言葉として利用可能かどうかといった指摘があってもよかったかもしれない．誤ってそのとおり書き言葉で書いてしまうと，意味不明とかいうものもある．<br />　またシチュエーションについて言えば，たとえば愛の告白のフレーズなんてのもあったが，このあたりになると，日本人だってそうだが，かなり好みがあるものである．著者2人の年代も気になるところである．私の感じたところでは，推奨されているフレーズは，少なくともティーンエイジャー向きではなさそうだし，やや無難すぎるかな，やや内向的すぎるかなといった感じがした．<br /><br />　たぶん，こういった本はどれもそうだと思うが，実際には，紹介されているフレーズを参考にしながら，実際には自分で実際の状況に合わせて変化をつけていかなければならないのだと思う．スタンダードはあくまでもスタンダードなのである．（もっとも，スタンダードとは何かといった議論もありえるが，私は英語の専門家ではないので，そのあたりはパスしたい．しかし，留学経験があるので，ある程度のスタンダード「らしさ」はわかっているつもりである．）<br />　自分が好ましいと思う自己像のとおりに英語でも自己表現したいとすれば，ものの言い方とそのニュアンスについて無関心ではいられないだろう．これらの本で予習した上で，見せたい自分のとおりに表現するにはスタンダードからどのように味付けするのがよいかを考えてみるのも面白いと思う．ただ，そういったことは，実際に現地で手探りをしてみて，相手からの反応を見ないとわからないものだとは思う．<br />　いずれにしても，こういったテーマは，意外にも難しくも興味深い問題の一端を表しているように思われた．<br /><br /> ]]>
        
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    <title>イタリアのバス</title>
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    <published>2010-08-14T15:29:39Z</published>
    <updated>2010-08-14T15:46:47Z</updated>

    <summary>6月末から7月初旬にかけてイタリアに行ってきたが，その中で，日本の過疎地域の公共...</summary>
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        <category term="2.2.旅行日記" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
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        <![CDATA[6月末から7月初旬にかけてイタリアに行ってきたが，その中で，日本の過疎地域の公共交通の参考となるかもしれないものを見たので，記録にとどめておきたい．<br />それは，コンテナ1つを引っ張っていた公共のバスであった．<br /><br />日本の過疎地域は，採算が取れないので，バスなどの公共交通が撤退していくというのが，よくある姿である．しかし，コンテナを引っ張る，あるいは，貨車を引っ張るというのは，多少なりともバスの運行のために貨物業者から対価が入ってくることを示している．また，バスは定期的に運行されるから，定期的に荷物が届くという貨物業者・利用者にとってのメリットもあるだろう．<br /><br />別にイタリアのとおりにやる必要はない．バスに空席が多いようなら，バスの後方を荷台にするという手もあるだろう．いろいろなアイディアを出して，過疎地域への公共交通を確保しないといけない．日本では思いもかけないバスとコンテナの組み合わせであるが，それを一度見てしまうと，自分の発想が貧困だったことを思い知る．さまざまなアイディアを模索できればと思う．<br /> ]]>
        
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    <title>イタリアのおっさん</title>
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    <published>2010-08-06T09:52:03Z</published>
    <updated>2010-08-06T10:31:47Z</updated>

    <summary>6月末から7月にかけてイタリアのRiva del Gardaで行われたSunbe...</summary>
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        <![CDATA[6月末から7月にかけてイタリアのRiva del Gardaで行われたSunbelt XXXに行ってきた．<br />景色もよかったし，本場イタリアンの味はガーリックでごまかさないのだということがわかったりと，本当によい学会だったのだが，インパクトという意味でいうと，バスの中で出会った酔っ払いのおっさんほどインパクトのあったものはなかった．<br />そのときには，思わずtwitterで実況中継もやった．そのうちログが消えてしまうだろうから，その熱気をとどめておこう（日時は，日本時間）．<br /><br />---ここから---<br />2010年07月04日(日)<br /><div class="tl-tweet"><p class="tl-posted">ローカルのバスの中なう。酔っ払いのおっさんらがやりほうだい。運転手が叱るとおっさん逆切れ。バス止まる。やれやれ。<br />posted at 02:44:25</p><div class="tl-tweet"><p class="tl-posted">いろんな人が止めに入って、すごいことになっている。一番強そうな兄ちゃんが、他の乗客に向かって、英語でソーリーだって。日本でもありそうな光景。<br />posted at 02:50:30</p><div class="tl-tweet"><p class="tl-posted">イタリアに来て一番インプレシブな事件 笑<br />posted at 02:52:12<br />---ここまで---</p><p class="tl-posted">湖水浴帰りなのか，酒に酔った上半身裸のおっさんが，手すりにぶら下がって器械体操まがいのアクロバットをやらかしたり，車内で酒を飲もうとしたところ，「車内は飲酒禁止だ」（イタリア語はわからないがたぶんそういうことだと思う）とバスを止めて注意しにいった運転手に逆ギレし，その後しつこく何度も運転手に絡みに行ったり，全く無関係の優しい淑女になだめられたり，インド系の男性に絡んだり，やりたい放題，し放題．日本では，ここまでのレベルの酔っ払いは見たことがなく，サンプル数1で恐縮だが，「ああ，イタリア人って何かすてき」と思ってしまった．</p><p class="tl-posted">また，そのおっさんの知り合いなのか家族なのか知らないが，ともかく，そのおっさんの「身内」みたいな人が数人乗っていて，おそらく妻とおぼしき人が，かなりの剣幕で「いい加減にして」とか（イタリア語はわからないがたぶんそういうことだと思う）注意するのだが，おっさんは，そのときには「わかったわかった」みたいなそぶりを見せるのだが，すぐにまた暴れ出すという繰り返しだった．あまりに状況がひどくなると，身内の中の一番がたいが大きくて強そうな兄ちゃんが飛んでいって「おいやめろよ」というようなことを言うと，一時的には少し大人しくなる．<br />ここで特筆すべきことは，その身内が，一切体を張った制止をしなかったことだ．あくまでも注意するだけ．一切体には手を掛けないのである．これこそが最もインパクトのあったことだった．妻とおぼしき人も鼻と鼻がくっつくような感じで注意するのだが，手は触れないのである．<br />なぜそうなのか，よくわからなかったが，これが彼らなりの他者に対する尊厳の認め方なのか．これがイタリア流，あるいは北部イタリア流個人主義なのか．</p><p class="tl-posted">と来たところで，いきなりパットナムの話になるのだが，Riva del Gardaは，イタリア北部のリゾート地である．見たところおっさんらは観光客ではなく地元の人がちょっと一日湖水浴に来たという感じがした．やり放題のおっさんが存在し，しかしそれを真剣に怒りながらも手は出さないというのは，イタリア北部で民主的制度が発展していることと何らかの関係があるのだろうか．<br />酔っ払いのようなぐちゃぐちゃな話で申し訳ないが，酔っ払いのおっさんから民主的制度の話は，あまりにもギャップがありすぎるか．そうかもしれないし，意外にそうでもないのかもしれない．とにかく，記憶に残りいろいろと考えるネタにはなったおっさんであった．</p></div></div></div>]]>
        
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    <title>「第36回日本フィル夏休みコンサート」に行って考えたこと</title>
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    <published>2010-07-26T15:41:40Z</published>
    <updated>2010-07-26T18:36:23Z</updated>

    <summary>7月25日(日)，サントリーホールで行われた日本フィルの親子向けのコンサートであ...</summary>
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        <![CDATA[7月25日(日)，サントリーホールで行われた日本フィルの親子向けのコンサートである「第36回日本フィル夏休みコンサート」（14時開演の部）に行ってきた．<br />これを演奏そのものについて，また，社会（学）的な観点から述べてみたい．<br /><br />まず，すごいなと思ったのは，サントリーホールがほぼ満席だったことである．このチケットを押さえたのは妻だったが，昨年は少し遅れたら満席で取れなかったとのことで，発売とともに売れてしまうほどの人気らしい．<br />確かに，プログラムを見ても，よく練られている．オーケストラ曲，オペラ，みんなで歌う曲といった3部構成一つとっても，飽きやすい子どもたちのことをよく考えた作りである．<br />曲そのものは子ども向けかというと，そうではない．たとえば，オープニングは，チャイコフスキーのオペラ「エフゲニー・オネーギン」より「ポロネーズ」だったが，賭けてもいい，このオペラの題名すら知らなかった聴衆がほとんどだったと．チャイコフスキーが好きな私も，昔チャイコフスキーの「お勉強」をしていてかろうじて名前は知っているが，曲そのものを聴くのは全く初めてだった（オペラ嫌いだからというのもあるかも）．その意味では，大人も「やられた」感があると思う．しかし，曲そのものは明快なもので，子どもたちがすっと入っていけるものだっただろう．<br />まあしかし，それ以外の曲は，明快で親しみやすいメロディをもった曲，小学生くらいになれば聴いたことのあるような曲で構成されており，よくできてるなぁと感心した．<br />休憩を挟んで第2部と第3部が続けて行われたが，第2部は「魔笛」．パパゲーノ（←ATOKもこれくらい一発変換してほしい）とパパゲーナが出てきて子どもたちも大喜び．ここでも子どもの心をちゃんと捉えていた．<br />それにも飽きてきた頃？には，みんなでオーケストラをカラオケに，手振りをつけて歌う曲3曲へと続く．子供心の機微を捉えている．（ただ，大人は半分くらいは乗れていない模様．）しかし，2曲目，近年の卒業式の定番らしい（と，妻に教えてもらった）Believeという曲は初耳．（誰でも知っている曲らしいが，私は，ポピュラー音楽にはほとんど無関心である．相当に偏屈である．）歌詞は社会学者好みではない（笑）し，曲自体はだらだらしていて凡庸である．明らかに小学生低学年以下に理解できる歌詞ではないので彼らが沈黙していたのは，改善の余地ありと思われた．それにしても，Believeに見られる気持ち悪いほどの浪漫主義は，自分にはunbelievableで，完全に沈黙を余儀なくされた．<br />歌って気分を取り直したところで，プログラム上の最後が「ダッタン人の踊り」であった．しかし...「えっ，最初からじゃないの？」　いきなりティンパニが出てきて3拍子が始まったときには，ずっこけた．いや確かにもう子どもの中には飽きちゃった子がいるかもしれない．でも，オーボエとイングリッシュ・ホルンのソロのないダッタン人なんて...クリープを入れない...，いや，このクリシェはいつぞやも使ったのでそこまでにするが，何とも口惜しい．<br />で，アンコールは，定番中の定番（書かないけど，子ども向けのコンサートでもあるわけだし，「あれ」しかないじゃないですか）であった．うちの子は，ここになって初めて大ノリ．いやー，あの曲って何で人心を完全につかんでしまえるのか不思議である．<br /><br />われわれは舞台に向かって左手の舞台脇のあたりで，舞台から指揮者の指揮を見る形になる席だった．指揮者の梅田俊明さんは，終始にこやかで，しかし，堅実な棒さばきを見せていた．子どもの教育という点からすれば，奇をてらわず安心できる演奏内容だったと言えるだろう．<br />オーケストラのメンバーも，いつもの定番といった感じでリラックスしているようで，安心して聴けるものだった．<br /><br /><br />さて，この演奏会は，関東一円で10回にもわたって開かれるものだが，どこでもこんなふうに満員御礼状態だとすると，子どもの音楽教育・情操教育といったことに関心を持つ親は，ものすごい数なのだと思われた．コンサートにやってくる人々については，そのうち私も実証データの分析を出すつもりだけど，やっぱりおハイソな人々である．純粋に音楽が好きとかいうだけではないものがある．「これがブルデューのいう再生産の象徴的な現場だ．この国のおハイソ社会とおハイソ文化は，不況などものともせず続いていくのだ」と感じられた．ただ，われわれの実証データによると，おハイソな人々は，社会ネットワークを異なる社会集団に掛けていくという好ましい性質を持ってもいるようだ．これについても，またいずれ．<br /><br />ところで，このコンサート，子ども向けとはいえプロのコンサートということになると思うが，私としては，昨年の木曽音楽祭以来のコンサートだったと思う．音楽好きではあっても，週末に松本とさいたまを往復する身としては，思いの外コンサートに行く機会はないものである．また，ふつうのコンサートだと，子どもは入場制限があるので，子どもを置いていくことになり，そんなにしょっちゅうおじいちゃん・おばあちゃんや託児所に頼るわけにもいかない．そういった向きには，親子コンサートというフォーマットは，クラシック好きの親の欲求とも絶妙に合致しているということに気づいた．もちろん，親子コンサートにブルックナーの8番全曲をやるわけにはいかないけれども（1楽章でも無理か...笑）．<br />会場で配布されていたコンサートのチラシを見ていると，他にも何種類かの親子向けのものがあるようだ．こういった親子コンサートは，一組で2，3人になるわけで，集客効率としてもよいのかもしれない．すでに飽和状態なのかどうかは知らないが，ビジネスモデルとしてはうまくできているのかもと思った．<br />終演後，ロビーでは楽団員を囲んだQ&amp;Aや，サイン会などが行われ，ある意味ではふつうのコンサートよりもずっとサービスがよかったとも言える．少子化の中，音楽を志す一定の人員を確保しようという明確な意図があるのだろうか．<br />ともかく，いろいろな側面で，面白い経験だった．「オレは何でも理解できるんだぜ」と物知り顔で聴くサイトウ・キネン・フェスティバルの「武満徹コンサート」もいいけれど，親子コンサートもアイディアの集合体であり，決して「子供だまし」などとバカにできないものだと感じられた．願わくは，「再生産」が緩和される形にするにはどうしたらよいのかといった点からも取り組みを期待したいが，それには，社会学者が，きちんと実態把握をしないといけないですね．それは，今後自分がやるべき仕事かもしれないと思ったりしているところでもある．<br />]]>
        
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    <title>第30回サンベルト会議</title>
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    <published>2010-07-06T18:07:00Z</published>
    <updated>2010-07-06T18:10:04Z</updated>

    <summary>オフィシャルサイトの方に，先日参加してきた第30回サンベルト会議についての報告を...</summary>
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        <name>Ryuhei Tsuji</name>
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        <![CDATA[オフィシャルサイトの方に，先日参加してきた<a href="http://www.shinshu-u.ac.jp/faculty/arts/prof/tsuji_1/2010/07/30720.html">第30回サンベルト会議についての報告</a>をアップしました． ]]>
        
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    <title>1.4.2.学会委員など</title>
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    <published>2010-06-07T15:00:01Z</published>
    <updated>2010-06-07T17:14:38Z</updated>

    <summary> 数理社会学会編集委員（2003-2004年度）日本ソフトウェア科学会「ネットワ...</summary>
    <author>
        <name>Ryuhei Tsuji</name>
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        <category term="1.4.2.学会委員など" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
        <category term="1.4.学会活動" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
        <category term="1.プロフィール" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
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        <![CDATA[
<ul><li><a href="http://wwwsoc.nii.ac.jp/jams/">数理社会学会</a>編集委員（2003-2004年度）</li><li>日本ソフトウェア科学会<a href="http://www.ai.sanken.osaka-u.ac.jp/ein/">「ネットワークが創発する知能研究会」</a>プログラム委員（2005年-）</li><li><a href="http://wwwsoc.nii.ac.jp/jams/">数理社会学会</a>・<a href="http://www.asanet.org/">アメリカ社会学会</a>数理社会学セクション共催（日本学術振興会国際研究集会助成）　第３回日米数理社会学合同カンファレンス（2005年６月24日～26日）＠北海道大学学術交流会館　オーガナイザー</li><li><a href="http://wwwsoc.nii.ac.jp/jams/">数理社会学会</a>第42回大会（2006年９月23日・24日）　大会委員長</li><li><a href="http://wwwsoc.nii.ac.jp/jams/">数理社会学会</a>渉外理事（2007-2008年度）</li><li><a href="http://wwwsoc.nii.ac.jp/jams/">数理社会学会</a>編集委員（2007-2008年度）</li><li><a href="http://wwwsoc.nii.ac.jp/jssp/">日本社会心理学会</a>編集委員（2007-2010年度）</li><li><a href="http://wwwsoc.nii.ac.jp/jams/">数理社会学会</a>・<a href="http://www.asanet.org/">アメリカ社会学会</a>数理社会学セクション共催　第４回日米数理社会学合同カンファレンス（2008年５月29日～６月１日）＠Crowne Plaza Hotel Redondo Beach and Marina　オーガナイザー</li><li><a href="http://wwwsoc.nii.ac.jp/jams/">数理社会学会</a>庶務理事（＝事務局，2009-2010年度）</li><li><a href="http://jasr.or.jp/">社会調査協会</a>『社会と調査』編集委員（2010年度-）<br /></li></ul>
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    <title>1.4.1.所属学会</title>
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    <published>2010-06-07T15:00:00Z</published>
    <updated>2010-06-07T17:11:45Z</updated>

    <summary> 数理社会学会International Network for Social ...</summary>
    <author>
        <name>Ryuhei Tsuji</name>
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        <category term="1.プロフィール" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
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        <![CDATA[
<ul><li><a href="http://wwwsoc.nii.ac.jp/jams/">数理社会学会</a></li><li><a href="http://www.insna.org/">International Network for Social Network Analysis (INSNA)</a></li><li><a href="http://www.asanet.org/">American Sociological Association (ASA)</a></li><li><a href="http://wwwsoc.nii.ac.jp/jssp/">日本社会心理学会</a></li><li><a href="http://wwwsoc.nii.ac.jp/jss/index.html">日本社会学会</a></li><li><a href="http://jasr.or.jp/">社会調査協会</a><br /></li></ul>
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    <title>カール・グレーベ『アントン・ブルックナー』を読んで</title>
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    <published>2010-05-22T15:00:00Z</published>
    <updated>2010-05-27T00:43:13Z</updated>

    <summary>ブルックナーという作曲家の伝記と若干のブルックナー論をまとめたのが本書である．春...</summary>
    <author>
        <name>Ryuhei Tsuji</name>
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        <category term="2.ブログ" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
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        <![CDATA[ブルックナーという作曲家の伝記と若干のブルックナー論をまとめたのが本書である．<br />春休みごろのことだが，池袋のヤマハに行ったときに，本のコーナーに行ったら，3冊くらいブルックナーにかんするものがあり，そのうち読みやすそうなものと思って買ってみた．<br /><br />私がブルックナーを知ったのはわりと最近である．クラシック音楽のCDを紹介する雑誌を見ていて，自分がこれまでよく知らない人のものを買ってみようと思って，交響曲第9番（ヴァント指揮，ベルリン）を買ってみたのが始まりだった．（たぶんだけど，吹奏楽出身の人は，ブルックナーをやった人というのはほとんどいないと思う．そこから入ると，存在すら知らなくてもおかしくないように思う．）最初に聴いたときから，あまりのすごさに戦慄が走った．オルガン的なサウンドで，特にホルンの使い方がすごい（19世紀末という時期なのに6本も使っている）．対位法がうまい．数小節程度のフレーズがいくつか執拗に繰り返されるのだが，それが何度も同じ雑念が頭をよぎるような効果を生んでいて，普段の私自身の雑念のパターンとマッチするような気がして共感できる．<br />私はブルックナーと同時代人のブラームスの交響曲が好きになれないのだが，ブルックナーは私的には「はまれる」音楽である．<br /><br />しかし，ライナーノーツの言っていることがよくわからないと思うところも多かった．よくわからない筆頭が，ブルックナーは「弱い」といった記述であり，続いて，交響曲にさまざまな版があるということだった．そのあたりについて，すっきりしたいという気持ちが強くなっていた．そんなわけで，本書を読んでみようと思ったわけである．<br /><br />本書の構成は，<br />序言<br />１．ブルックナーの問題点<br />２．幼・少年期のブルックナー<br />３．若い学校教師<br />４．聖フローリアンでの十年<br />５．リンツ大聖堂のオルガン奏者<br />６．ウィーン音楽院の教授<br />７．音楽都市ウィーン<br />８．両派の争いの間で<br />９．敗北と成功，そして死<br />10．ブルックナーの交響曲の植物的な統一<br />11．形成　関連　特性<br />12．改訂のジレンマ<br />・年表　証言　作品表<br />・訳者のあとがき<br /><br />となっている．全体としては，前半部分が伝記，後半10章以降がブルックナーにかんする音楽論といった感じである．<br />読み終えてすでにずいぶんと日が経っているので，伝記部分で印象的なことといえば，不正確だとは思うがまとめると，だいたい以下のとおりである．幼少期には教師になるべく育てられ，非常にくそまじめで融通の利かない感じの性格であったということ．当時は教師になるには教会音楽について知り，オルガンをある程度弾けないといけなかったということ．ただし，そのような音楽は，いわゆる芸術音楽とは方向性が違っていたということ．しかし，ブルックナーのオルガンの演奏技術は抜きんでており，即興演奏なども得意としていたこと．かなり年を食ってからウィーンに出たが，元来社交が苦手で，ワーグナーとブラームスとの抗争に巻き込まれ流されたこと．自分の作品に絶対の自信が持てず，批判をおそれ，人に相談したりしながら改稿を続けたこと，またそのために版がいくつかある作品があること．権力に対する考え方が偏っていて，学校にこだわり，ウィーン大学の教授となることを求め続け，ついに実現したこと．彼の音楽は，ウィーンにおいてよりも他の都市において認められたこと．といった感じである．<br />そんなところから，彼の音楽で随所にオルガン的な響きが作られるのは，やはりオルガン奏者という背景があるからだということがわかってきた．<br />ブルックナーの「弱さ」とは，芸術家に必要なある種の高慢さ（「お前らにはこのよさがわからんのか！」といった感じ）がなく，批評家の批判に応えて改訂を加えるといったことをやってきたことにあるのだということがわかってきた．<br /><br />私の関心は伝記的なところよりも，むしろ音楽論にあった．どの交響曲も何となく同じような雰囲気を持っており，冗長とは言わないまでも長大である．こういったブルックナーの音楽を著者はどのように分析し解釈するのかに単純に興味があった．もう少しいうと，そういった分析や解釈というものが，どの程度科学的であるかということに興味があった．今まで音楽論というものにほとんど接したことがないので，ほとんど何の免疫も持っていない．あるのは社会学（数理的・計量的社会学）という他領域で培った能力であり，そういう観点から音楽論というものがどのように見えるか，ということに関心があった．<br /><br />しかし，結論から言うと，やっぱり理解不能だった．何といっても10章のタイトルにもある「植物的統一」である．ひどい揶揄なのかもしれないが，「草食系男子」「肉食系女子」とかいう社会学的に見てクソなふざけた概念（もちろんそれは社会学の用語ではない）と比べて異なる水準にあるといえるかかということである．「植物的」とはいったい何なのか．関連する部分を本書から拾ってみると，「［ブルックナーの交響曲に］肯定的な見解の人々は，ここに「植物的な統一」とでも形容されるべきものを認める．それは［否定的な見解の人々がいうように］固定観念への永続的な関連ではなくて，一つの根本理念への永続的な関連と見るのである．」（p.206）　「ブルックナーの全交響曲の，その相互に結びつけられた関連は単純ではない．それらが秩序づけられている構造は，大きな相互関連の深さを持つ，閉じられた世界を示している．」（p.206）　このあたりですでにお手上げなのだが，<br />１．固定的観念への永続的な関連ではない，<br />２．一つの根本理念への永続的な関連である．<br />３．交響曲が秩序づけられている構造は，深い相互関連を持っている閉じられた世界である．<br />私は日本語の理解が深くないことは認めざるをえない．自分には国語力がないので文学者にはなれないことも認める．しかし，１と２でいうところの「固定的観念」と「一つの根本理念」は，何か根本的に違うのだろうか．素人的に思うことを述べれば，前者はあくまでも個人的で多くの場合あまり価値のない思いこみみたいなものであり，後者は一般的で普遍的に価値のある考え方といったものだろう．そんな素人的な考え方が認められるのであれば（あくまでも仮定の話だが），問いたいのは，そういったものの違いを区別するものは何かということである．「お前のような無教養なものにわかるはずがない」と言われるかもしれないが，個人的にはそういった言い方は逃げ口上のように思われる．むしろ示してほしいのは，ブルックナーの交響曲のどういったところに「固定的観念」ではなく「一つの根本理念」が表出されているのかを示すことである．とりあえず，本書に具体的な記述はないと思われた．しかし，「引用個所にあるように，これは「全交響曲」において表出されているのであり，個別的にどこだということは言えない」と言われてしまうかもしれない．いやしかし，それはやっぱり逃げ口上なのではないだろうか．<br /><br />また，統一感というものがブルックナーの交響曲全体に感じられることは，私にもわかる．それは，異なる交響曲間で同じフレーズが鳴っていたり，ブルックナー・リズムと言われる音型が随所で鳴ったりすることである．それはそれとして，こういった統一は，なぜ「植物的」と呼ばれなければならないのだろうか．「植物的」という言葉の明確な定義は示されていない．また，それと対義語になると思われる「動物的」といった表現についての言及や定義はない．結局，統一感があることは示せても，それが「植物的」と呼ばれなければならない理由は見いだせなかった．こんなことでよいのか．<br />さらに，「もし我々がブルックナーの交響曲の基本的な成長の法則を理解しようとするならば，その立証が試みられなくてはならない．ブルックナーの音楽における，いわば「原植物」を見い出すことが問題となる．」（p.209）しかし，「その立証にもし成功したとしても，それによって「植物的な統一」を極めて明白なものとして体験することが，だれにでもできるというわけではない」（p.210）という．卒倒しそうである．しかし，そんなに難しいことなのだろうか．グレーベが本書で示していることは，基本的にはパターンマッチングだと思う．おそらくパターンマッチングをするための基本となる音型など基本となる各種のパターンのことを「原植物」と呼んでいるのではないかと想像されるが，しかし，それによって「原植物」というものが発見できたとしても，「植物的な統一」を体験することが誰にでもできるわけではないとは，あまりにも人をバカにしている．なぜ，我々には「植物的な統一」を体験できる人と体験できない人がいるのだろうか．これには，いくつか解釈が可能であろう．<br />１．グレーベという人は「神」であり，我々に対して神託を与えている．神託は理解できない人，洞察できない人がいて当然である．逆に言うと，神の言うことを意味はわからずともひたすら信仰できるかどうかが重要である．<br />２．この後続くグレーベなりの「分析」は，数学を使ったかのような記述が続く．特に，２：３やら，６：９やらといった比を用いた「分析」らしきことをしている．「数の象徴的意義という問題を深く追求しない人，数の神秘から全く遠ざかっている人には，数が音楽の構造に極めて大きな意義をもっているということは，殆んど議論の対象とはならないであろう．しかし，かつてのフランドル地方の音楽やバッハに至るまでのバロック音楽は，建築学的な性格を持っていた．」（p.208）とあるように，多くの人々は数学が苦手である．数学のわかる人にしか「植物的な統一」は理解できない．数学の証明問題の中でも難しいものは，世界に数人しか理解できないものがあるという言説があるが，これはそれに似ている．<br />３．とにもかくにも無茶苦茶な論理であり，実際にグレーベの分析はひどい．わかる方がどうにかしている．<br />私の意見では，３が正しい．それを論証してみよう．<br />１．まず，神がいるかどうかは別にして，グレーベは神ではあるまい．ただひたすら信じよ，長いものに巻かれよというのは，非科学的態度にすぎる．別に科学的である必要はないと開き直るならば，それは人々にひたすら信仰を強制するファシストのようなものであると言えばよいか．いずれにせよ，１のようなものではないだろう．<br />２．「数」というものは重要かもしれないが，論じ方があまりにも稚拙である．ちなみに私は数理社会学者であり，多少とも数学や数理モデルになじみがある．私の目は数学者ほどではないにせよ，それなりのセンスがあるものと自負している．以下では，論理破綻している点について指摘したい．<br />ベートーヴェンとブルックナーのそれぞれ９つの交響曲について，その関連性を描いた図が示されている（p.206, p.208）．しかし，その根拠ははなはだ心許ない．曰く「もし我々が，化学者が分子に対してするように，この結合の構造を象徴的に表すならば，それは次のようなものにちがいない．」といった程度である．ただグレーベ自身がそのように思った・感じたという以上の理由はないのである．こんなものは，数学でも何でもない．数に対するイメージを語っただけで単なるまやかしである．<br />「古典派の音楽にとっては，「二」が基本的な数である．「二」は一義的な対称性を持つ偶数であり，明白な一目瞭然とした性格を古典派音楽に与えている．」（p.209）「「三」という数字は，ブルックナーの全作品で，殆んどとらえきれないほどの重要な役割を果たしているのである．」（p.208）「「三」という数字はあまり合理的でなく，また同時に，一義的な対称性をもっていない．その構造はより複雑である．要するに基本的な数としては，「三」は音楽を複雑にし，背景のある奥行きの深い眺望を与える．その構造と経過に「三」という数が決定的に作用している音楽は，そしてさらに２：３という関係が公式として支配的である音楽は，「二」という数字が支配する音楽よりも，見通しはよくないかも知れないのである．」（p.209）「２：３という公式が，ブルックナーの交響曲のあらゆる層において作用していること，それが動機細胞のような小さな部分でも，ここの楽章の形式構造でも，そして終極的には全作品の包括的な輪郭においても，作用していることが証明されて初めて，我々は「ブルックナーの交響曲の植物的な統一」ということを，正当に語ることができるのである．」（p.209）という．<br />動機細胞という点からは，ブルックナー・リズムが２：３であることが論拠とされる．これはまあよいだろう．とりあえずこういったリズムが散見されるのは確かである．<br />楽章の形式構造という点については，交響曲第7番の第1楽章の提示部について，それが明白な実例として取り上げられているのだが，曰く「この提示部は三つのグループからなるものである．つまり第一のグループは，和声から生まれた間隔をおいた音からなる主要主題である．」（p.216）「第二のグループは，全音階的な線的なインパルスから生まれた第二主題であり，これには和声は，いわば単につけられているだけである．そして最後に，簡潔な第三のグループであるが，その「偉大さ」は超人的な距離感を表現している．」（p.216）このあたりになると，かなり怪しくなってくる．提示部の9小節が3つの部分に分かれ，それが以上のような関係性を持っているのだという．しかし，例はこれ1つである．論証としては1例をもって「他にもいろいろある」と言ってしまうのは無理がある．例を挙げるだけでは証明になどならないのだが，いずれにせよ，科学的分析とは言えない．もっと言えば，自説を根拠づけるのに都合のよい例だけを挙げるという態度も納得できない．科学者としてなら相当にまずいことをやっていることになる．<br />全作品の包括的な輪郭については，交響曲を2群に分けている．第1群が3,4,5,6,7,9番の6交響曲と，第2群が1,2,8番の3交響曲である．そして，この分かれ方により，６：９あるいは２：３の関係があるのだという．（これがなぜ２：１ではなく２：３と呼ばれなければならないのかも疑問である．ブルックナー・リズムは２：３と言ってもよいと思うが，この場合，第2群は実質的には１の大きさしかないわけで，合わせて３というのは，言い訳がましい気がする．ともあれ，）その根拠が第1楽章の主要主題である．第1群では，根音，3度，5度，オクターブといった音を強調しているが，第2群はそうではないというところに区別の根拠を求めている．これについては，確かにあまりにも明白な気もするのだが，しかし疑義はある．まず，群の分かれ方が規則的とは言い難い．各群の交響曲の番号の並び方に規則的な美しさは感じられない．ブルックナー自身が，いろいろなものを数える人だったというエピソードによって数への執着を強調しているようであるが，この美しくない分かれ方は，グレーベの論を弱めているように思われる．また，常識的に考えてみても，ブルックナーが当初から9つの交響曲を書こうと思っていたかどうか，また，生涯に書くことになるであろう交響曲に対して当初から何某かの計画性を持って取り組んでいたかとなると，それは相当に無理のある仮説ではないだろうか．かたやワーグナーとブラームスとの抗争や，必ずしも成功しなかった自曲のプロモーションという状況にあって，初心があったとしても，それを貫徹できるような状況にはなかったと思わざるをえない．それができるなら，彼を「弱い」と表現することは相当に無理があるだろう．「三」とか「２：３」といった「公式」について，それは「彼の無意識の深層から出て来て，彼の音楽の成長に作用したものと仮定してよいだろう．」（p.217）とあるが，無意識とか無意識の深層というのは，完全に説明を放棄しているとしか思えない．現在の科学の水準においては（本書の書かれた30年前においても），無意識などというものを説明として使うのはギャグでしかない．<br />以上から，解釈の２については，数にかんする理解があったとしても，理解できるものではないということができるだろう．このように３つの解釈可能性について考えてみたが，消去法的に考えると，３の「とにもかくにも無茶苦茶な論理であり，実際にグレーベの分析はひどい．わかる方がどうにかしている．」というものしか残らない．現代風にいえば，グレーベの分析とやらは「トンデモ」仮説にすぎないとしか言いようがないと思われる．<br />さて，そんなわけで，音楽論というものについて，私はかなり怪しいと思うようになってきた．こんなものをありがたがって奉じ奉る必要など全くない．グレーベという人がどれほどの権威のある人なのかどうかは知らないが，私には雰囲気でものを語る人という悪い印象しか残らなかった．<br /><br />こういったところから，私が考えた音楽評論のあり方は，以下のとおりである．<br />１．音楽構造の分析は，パターンマッチング的な手法で行っているようである．それはそれでよい．しかし，印象論にとどまらないように，最も明白な例だけでなく，少なくともいくつか例を示すべきである．それにしても，立証とか証明といった強い言い方をするべきではない．我々にできることは解釈に過ぎない．<br />２．1人の作曲家について，そもそも科学的に分析することができるのだろうか．ブルックナー・リズムについては私はあまり問題ないと思う．そういうパターンがブルックナーのさまざまな交響曲で散見されるというのは，例がいくつでも取れるので，科学的分析の俎上に乗るだろう．ただし，ブルックナー・リズムが独特であるというためには，他の作曲家と比べてこれの使用頻度が極めて高いことを実証すべきである．しかしながら，1人の作曲家について，その生涯に書いた交響曲全体に対してパターンを見出したりする作業は，あくまでも解釈にとどまると考えるべきであろう．それは，全体として1例に過ぎないからである．1例ではそもそも科学になりえない．作曲家というものは，同じ作曲家が2度と現れないということからしても，物理学において何かを予見させる例が1つ見つかったというのとはわけが違う．再現が不可能であるからである．比較的に他の作曲家との違いを分析することは可能としても，1例のためにそれを「植物的」だの「動物的」だの言ってみても仕方ない．それは何らかのイメージを喚起するかもしれないが（私には全く意味不明のままだったが），他との比較をもとに端的なイメージを与えるものでなければ，そのイメージには意味がないだろう．また，「植物的」という意味はよくわからないにせよ，おそらく「動物的」といった言葉と対になるのであろうと思う．つまり「植物的」という言葉は，2元論的な分類を想起させるものであるわけだから，他にも植物的という範疇に分類されるような作曲家がありうるかもしれない．そうだとすれば，「植物的」という比喩は，全体を2つに分ける程度の意味しか持たず，したがって，ほとんど何も解明したことにならないように思われる．もっとも，ブルックナーの同時代までの作曲家たちが「植物的」という範疇に分類される者が誰もいなかったというなら話は別であるが...．しかし，本書においてグレーベは，交響曲全体の包括的分析としてはベートーベンとの比較しかしていない（しかもその部分さえ印象論に過ぎず，成功しているとは言い難い）．論証は極めて部分的であるという印象を持たざるをえない．そんなわけで，どんな作曲家についてであれ，その人，その作品の全体的な傾向にかんする分析は，科学的に行おうとするならば相対的にしか行われえない．数が重要などと，いかにも科学を装うやり方，しかも，数理社会学という多少なりとも数学にかかわる者からすれば，極めて粗っぽい「数学的」論証は，読者を煙に巻いているとしか思われず，このようなやり方は忌避されるべきであろう．数や数学を持ち出さないで，単なる解釈だというなら大目に見たい気もあるが，ほとんど似非数学としか呼べないものを科学的な装いのために利用することは，非専門家をバカにしている気もするし，実際，数理モデルを扱う者を納得させるものではない．<br />全体的な感想としては，音楽評論家全体としてはどうか知らないが，一部には知ったかぶりをするような人がいるということであった．それでも少し救いの手をさしのべるとすれば，これは音楽評論に限ったことではなく，どの世界にもいるものである．私も日本社会学会だったかでひどい発表を聞いたことがある．詳細は忘れたが，社会の類型論か何かをするつもりだったかで，ある種の社会についてそれが「虚数のイメージ」だとか言っていた発表があった．当時私は血気盛んな若者だったので，「虚数とはどういう意味か」，「虚数はかくかくしかじかの性質を持っているが，その類型においては虚数のこの性質はどのように反映されているのか」などと，ぐうの音も出ないほどやりこめた覚えがある．ともあれ，何事においても，本当にきちんとした理解もないのに数学的装いを持ったまやかしの文章は書くべきではない．<br />グレーベの原典の出版から30年以上が経過している．音楽評論のあり方もずいぶんと進歩している可能性もあるが，周囲の音楽関係者たちから感じられるのは，社会学会などは比較にならないほど権威主義的で閉鎖的な領域であることである．こういう状態においては，出る杭は打たれたり，しがらみにとらわれたりと発展が遅い可能性もある．（ある意味うらやましいと思うこともある．大学の先生たちが演奏するとファンがついたり尊敬されたりする．私など研究室に配属されて半年も経たない学生に「辻さん」呼ばわりされる．全く威厳も何もあったもんじゃない．）もう少し新しい評論も読んでみたい．まだ諦めきったわけではないが，少し心配もしている．<br />ただ，これももう30年も前くらいかと思うが，ホフスタッターが，ショパンの幻想即興曲か何かの分析で，左手の8分音符の6連符に対して右手で16分音符8つが入るというような３：４の型がショパンの音楽には随所に見られるといった分析だったような気がする．しかし，それは数学的にはまともだとしても，「そんなもん，言われんでもわかってるわ．弾いていたら誰でも思うことやろ．」という感じの非常につまらない分析だったような気がする．音楽の構造を理解するのは基本的にパターンマッチング的手法が用いられるようだということはわかってきた．そういうことであれば，時間さえあれば自分にもできることかもしれない，などと思ったりもする．もちろん，暇はないのでやらないだろうが．しかしともあれ，分析をきちんとやれば，単なる解釈ではなく科学的になりうることもあるのだと思う．少なくとも評論家自身の単なる印象のようなものを，素人相手ならごまかせるというようなつもりで開陳しない方がよいと思う．それは人を惑わす知的詐欺である．<br />私にできる評論，できない評論があることもわかってきた．できる評論は，楽曲の構造分析である．暇があれば水準以上のものを出せるような気がする．しかし，できないのは，たとえば同じ交響曲の数多くの版を評価することである．これはどういうことを基準とすればよいのかがよくわかっていないから（自分では好みはあるが，それがどういうものであるかきちんと言語化できていないし，一般的にどういう点を評価基準にするべきかを知らないから）である．<br />先日同じ学部のF先生と飲んでいたときに，「究極の目標は数学で音楽を理解することです」と言ったら「そんなことできっこない」とばっさりと切り捨てられた．しかし，今の工学者たちがやっている音楽の分析は，これで何もかも解明できたというレベルには達していないものの（たとえば，大阪大学の沼尾先生の研究など），数学でできる部分はまだまだ残されているようには思う．最後までやり通すことはできないにせよ，最初から理性による到達を諦めるのではなく，理性によっても理解できない残余としてどういった部分があるかを明らかにしていくことが重要であるように思う．<br /><br />]]>
        
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    <title>たかが毛，されど毛</title>
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    <published>2010-04-14T14:46:36Z</published>
    <updated>2010-04-14T15:25:02Z</updated>

    <summary>　全く意味のない話なので，読まない方がいいかもしれない，と一応警告しておいてから...</summary>
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        <name>Ryuhei Tsuji</name>
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        <![CDATA[　全く意味のない話なので，読まない方がいいかもしれない，と一応警告しておいてから本題に入る．いつでも読むのをやめてもらってかまわない，と再度警告しておいてから本題に入る．<br /><br />　最近，気になっていることがある．私の研究室のある同じフロアにあるトイレにある1本の「毛」である．いつからそこにいるようになったのかはっきりとした記憶はない．しかし，少なくとも今年に入ってからはある．入試でバタバタしていたときにはすでにあったから，丸3か月くらいは，少なくともそこにいるのである．<br />　正確にどこにいるかというと，2つある男子の小用便器の左側の方で，下部の丸いふた（そこから排水溝へと続くあのふた）のところである．奴はふたに挟まって流されずにずっとそこにいるのである．<br />　とにかくすごい生命力である．生物ではないが，渾身の生命力を感じさせるのである．これまで何人の男性が奴に向かって小便を浴びせてきただろう．春休みだったこともあってそれほど利用者は多くなかったかもしれない．しかし，仮に1日20回くらい利用されているとすると，3か月で20×90＝1800回である．1800回の試練に耐えて，まだ奴は流されずに踏ん張っているのである．<br /><br />　入試の頃，そいつを流してみようと頑張ってみたが，ちっとも成功しない．何度頑張ってもダメだった．もとの持ち主は，一生毛には苦労しないほど剛毛なのだろうなと思う．<br />　掃除のおばちゃんもおばちゃんである．ちゃんと掃除してるのか，と思うが，もしかすると，おばちゃんも奴に気づいていて，私と同様，「おおよしよし，今日も無事だったかい」などと思いながら，そこだけこすらないようにしているのかもしれない．<br /><br />　今では，奴に少しずつ愛着が湧いてきている．「やあ，こんちは．今日も元気そうだね」という感じで，奴に挨拶代わりの小便をかけてやるのである．奴は喜んで小躍りする．<br />　私は，長期休暇中だろうが，授業期間中だろうが，泊まり込みをすることが多い．夜に顔を合わせると，「こいつも夜遅くまで頑張ってるな」と感じてやる気が出たりする．<br /><br />　奴はいつまでそこにいるだろうか．小便に流されるのが先か，小便と化学反応を起こして溶けてしまうのが先か（そもそも溶けるものなのだろうか），この文章に気づいた事務方がおばちゃんに連絡して抹殺するのが先か．どこぞに生えていた「ど根性大根」とかよりもどうでもよいものだとは思う．こいつに何の価値もないとは思う．<br />　しかし，たかが毛，されど毛，である．<br /> ]]>
        
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    <title>紀田順一郎『名前の日本史』を読んで</title>
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    <published>2010-04-07T00:40:35Z</published>
    <updated>2010-04-07T02:29:54Z</updated>

    <summary>　この春休みは忙しすぎて，ほとんど何も読めなかった．たぶん，私は研究者としては致...</summary>
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        <name>Ryuhei Tsuji</name>
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        <category term="2.3.とんでも科学" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
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        <![CDATA[　この春休みは忙しすぎて，ほとんど何も読めなかった．たぶん，私は研究者としては致命的に本を読むのが遅い．前任校の別の学部にいたある人は，バスの中でも本を読んでいる姿をよく見かけたが，車酔いしないのかと案ずる一方，本に対する執念を感じたものだが，私にはそんなものは皆無である...苦笑．本に書いてあるようなことは，自分で考えればよいとかテキトーなことを思ってごまかすからである．<br />　さて，表題のこの本だが，たまたま本屋で見かけて昨夏くらいに買って積ん読状態だったものを読んでみたという次第である．一言で言えば，日本人の「名前」がどのように変遷してきたのか，またその背景は何かといったことを書いたものである．<br />　うちの学部にも歴史の研究者は大勢いらっしゃるのだが，恥を忍ばず開き直って言えば，私には崩し字は読めないし，古文書を読んだこともない．うちの歴史系の学部生以下である．（「歴史系の専門家の先生方，こんなのが同僚でごめんなさい」としか言いようがない．）そんなわけで，歴史系の話となれば，単なるアマチュア好事家の根拠のない話も，専門家の話も，本質的に何が違うのかよくわからない．買う前に著者の経歴は見るけれども，果たしてそれでどれだけの判断ができるのかもよくわからない．この著者の経歴も，言葉は悪いが全くよくわからない．そんなわけで，読みながらも，「えー，ほんまかいな」とか，「まあ，鵜呑みにはせんとこ」とか思いながら読んだわけである．<br />　明治以前の名付け方がどうであったかということ，また生涯を通していろいろな名乗り方が比較的自由にされたこと，それが明治になって1つの姓と1つの名とすることになったこと，その反動で雅号などを称する人が増えたり減ったりしたことなどが大きな流れである．そのあたりのことは私自身が検証する術を持たないので，ただ信じるしかないわけだが，出典が不明とか，論拠が今ひとつよくわからないところもあり，半信半疑とならざるをえなかった．<br />　第6章は，明治以降の人気の名前の変遷である．このあたりになると，社会学的に読める部分もでてきて，疑いは根拠を持って大きくなる．たとえば，「明美」という名の盛衰について，昭和32年からベスト10入りしたが，「風俗産業の源氏名の定番となるにいたって，わが子の名としてはふさわしからずということになり」凋落したとあるが，源氏名効果がどのくらいあるのかについては，どんな形で検証しているのか全くわからない．確かに何かの流行歌の歌詞に読み込まれたものがあった記憶があるが，そういったことがどれだけの社会的効果をもたらすのかは，そもそも検証方法が確立されていないということもあると思うが，わからない．源氏名うんぬんは，単なる根拠のない推測に過ぎないように思われる．<br />　また，昭和50年代の名前は，タレント名やアニメの主人公の名前を「そのまま引き写しにした」ものが多く，平成にはいると「漢字のイメージを重視する傾向」になるという．そのあたりも名前1つ1つ検討したのかよくわからないという感じがする．さらに，近年の当て字的な名付け方については，「起源をたどれば劇画やアニメに行き着くであろう」というが，起源をどのようにたどればよいのかという方法論上の問題がクリアではなく（実際に何らかの具体的な方法でたどってみたとは書かれていない），単なる推測にすぎないのではないだろうか．これでは，俗説でしかない．<br />　社会学を専攻する学生は，卒論のテーマを考えるときに，映画やファッションなどを取り上げようとすることが多いが，彼らが構想初期の段階で決まって言うのは，「どのような映画が作られるか（人気があるか）は，その時代の雰囲気と関係があります」というようなことである．しかし，このような言明は，他の分野はいざ知らず，社会学では，ひどくたたかれることになる．どのような方法をもってすれば，そのようなことが言えるのかがわからないからである．資料を集めればよいということでは，許されないことも多い．その資料が特定の時代を「代表」していると言えることをどうやって担保するのかという問題がつきまとうからである．学生たちは，当初，「質的分析」を行えばよいというようなことを考えがちだが，重要なことは分析方法以前に資料の代表性である．<br />　この著者の本当の専攻が何なのかはよくわからないままだが，全体として感じることは，結局，代表性の問題であるように思われる．自分の言いたいことにそって場当たり的に例を提示するというやり方を，私はかたくなに拒否してしまうのである．やろうと思えば，私は著者の主張と全く逆のことを例を使って示すことができるかもしれない．例を挙げるだけでは，根拠としては全く不十分なのである．<br />　そんなわけで，私が評価しうる範囲において，この本の内容をそのまま受け入れることは，私にはできなかった．また，過度の一般化かもしれないという留保が必要かもしれないが，私の評価できない歴史的な部分についても，どこかしらに怪しい記述が多いのではないかと疑ってしまったのである．<br />　新書には当たり外れが大きいが，これが当たりか外れかはよくわからない．それは，ひとえに，論拠がきちんと示されていない記述が多すぎるからである．その意味では外れであるが，論拠がきちんと示されれば当たりに化ける可能性もある．まあしかし，現状では外れと言わざるをえないだろう．<br />]]>
        
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    <title>『隙間』vol.1を読んで</title>
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    <published>2010-04-05T16:00:00Z</published>
    <updated>2010-04-05T17:42:01Z</updated>

    <summary>　制作スタッフ7人のうち私の知っている学生が3人も関わっているフリーペーパー『隙...</summary>
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        <name>Ryuhei Tsuji</name>
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        <![CDATA[　制作スタッフ7人のうち私の知っている学生が3人も関わっているフリーペーパー『<a href="http://sukima.onmitsu.jp/">隙間</a>』のvol.1が発行された．<br />　少し前から，彼らがそういった活動を始めているのだということは聞いていた．しかし，具体的な中身がどういうものなのかについては全く聞かされていなかった．4月5日，その学生の1人からブツを受け取った．その場では読まず，うちに持ち帰り，先ほど一通りそれなりに丁寧に読んだところである．<br />　野暮なので記事内容そのものについて評するのはよそう．<br />　扉を開けると「繋がり」の話で始まる．「おお，自分が専門にしているネットワークの話ではないか．」それがわかると（わかったつもりにすると），全体のコンセプトはわりと明快である．それを「隙間」と呼ぼうが何と呼ぼうが，それはお好きにどうぞ．<br />　しかし，である．いずれの記事からも，制作に関わった学生たちの切ないほどの無縁感が伝わってくる．社会は彼らが考えるほどに断片化されているだろうか．私には，やや誇張があるように感じられた．むしろ，社会が断片化しているのではなく，彼ら制作スタッフ自身が社会から切り離されていると（勝手に？）感じているように思われるのである．それは，大学生という年代の人々が，別に彼らでなくても，私もそのくらいの年代の頃に感じていたように，自分がまだ海のものとも山のものともつかぬ状態で自分探しをしている構図そのものであると思う．ウェブサイトにあがっている制作スタッフの編集後記の長文であることが，実に切ない．<br />　自分も学生時代こんなんだったっけ？　自分はもっと柳に風的にスマートに，逆に言えばあまり物事を考えずにやり過ごしたように思う．さらりと生きられない彼ら．彼らをそこまで追い立てる欲求とは何なのか．おもしろいのは，随所に前言否定があることである．「オレたちは大学でお勉強はしてきたけど，それだけでは満たされない残基がある」とでも言いたげだ．確かにそうかもしれない．少なくとも私の知っているその3人についていえば，インタビューの技法や文章のまとめ方といったことは習ってきたが，教員に頼らず最後まで自分たちだけで責任を持ってアウトプットをした経験はなかったのかもしれない．「自分たちの無能さに甘えたくない」というような強迫症めいたメッセージが伝わってくるのが痛々しいのである．<br />　「フリーペーパー」というのは，洒落かと思う．それは，彼らが大学という枠組みに縛られず，解き放たれたい（set me free）という欲求を暗示しているように思われた．しかし一方で，彼らはまだ自分が何と繋がればよいのか模索しているようにも見える．<br />　ワッツ流に，ランダムに繋がればよいと言い放つことは簡単だが，それでは，あまりに物理学的ジョークだと思うのかもしれない．人間は繋がりに意味を求めるから．<br />　学生にとって専門分野を決めることは悩みに悩んだ上での「必然」的意味を持っているのかもしれない．しかし，学生を受け入れる教員にとっては，ある年度にどんな1年生が入学してくるのか，また，その翌年，どんな2年生が自分の担当する分野に配属されてくるのかは，ほとんどランダムに決まっているように感じられる．しかし，そんなランダムな奴らでも，1年，2年とともに過ごせば，情もわく．私は，ランダムに出会った奴らとも一期一会の精神で接している．私には，それで十分である．彼らにとっては，ランダムな繋がりは意味があるのだろうか，ないのだろうか．<br />　なぜ，彼らは印刷媒体という形での出版を望んだのだろうか．どこでどのように読んでもらうことを期待したのだろうか．彼らは不特定な5千人（5千部）からランダムに（といっても松本市内だろうが）繋がられることについて，どのように考えているのだろうか．そのことにどのような意味があると思うのだろうか．<br />　それにしても，読んで肩が凝った．私など，そんなにあらゆるものに意味を求めなくてもよいと思うから気楽だけど，彼らはしんどいのだろうなと思う．しばらくはもがけばよいと思うが，最後は，あらゆる可能性の中から何か1つ（少数）を選び取らないといけない．少し離れた場所から応援はしていたいと思う．<br />]]>
        
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    <title>共通教育科目「震災と社会」への思い</title>
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    <published>2010-04-01T16:55:16Z</published>
    <updated>2010-04-02T01:12:14Z</updated>

    <summary>　今年度、共通教育科目（いわゆる一般教養）で「震災と社会」という講義を行います。...</summary>
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        <name>Ryuhei Tsuji</name>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://rtsuji.jp/jp/">
        <![CDATA[　今年度、共通教育科目（いわゆる一般教養）で「震災と社会」という講義を行います。現在、２人の震災体験者の方にもお越しいただくことをご快諾いただき、日程も定まりました。<br />　2004年10月の中越地震からはや5年半。そのころから何度も何度も現地に行き、いろいろな人から話を伺い、そして、地震の前と後とで都合2回の大規模調査を行い、他にもさまざまな調査を行ってきました。それらについて、そろそろまとめをしないといけないと思い、まずは講義をすることにして、自分自身が逃げられないようにし、どのような形になるかはわかりませんが、近いうちにそれをもとに単著にまとめたいという気持ちがあります。<br />　私が最初に被災地に入ったのは、すでに一冬越した2005年の7月でした。運良く4月に科研が当たったからですが、夏休み前までは授業などに追われて現地に入ることがままならず、ようやく7月に旧栃尾市役所（現長岡市栃尾支所）にインタビューに行きました。それからは、わりと足繁く現地に通うようになりました。数人の区長さんに話を半年おきくらいに聞きに行きました。<br />　なぜ、マスコミで取り上げられた山古志村や小千谷市や川口町ではないのか、なぜ栃尾市なのかというと、それは、たまたまですが、震災前の2002年に栃尾市で郵送調査を行っていたからです。被災地の1つであった栃尾市で震災前後の比較を行うことができるならば、それはこれまでにほとんどだれも取ることができなかったタイプのデータを取ることができるという期待があったからでした。<br />　そして、2006年に実際に、2002年に調査に協力していただいた方々に対して、もう1度調査をすることができ、本当に貴重なデータを手に入れることができました。<br />　しかし、分析は難航しました。まず、サンプル数があまり多くないので、あまり凝った分析はできません。比較的単純な分析を積み重ね、これは間違いなく言えそうだということに到達するまでにはかなり時間がかかりました。...意味がわからない人も多いと思いますが、統計分析というのは、サンプル数が多い方がよいことになっていて（あるいは前提となっていて）、逆にサンプル数が少ないと、ブレが大きくなって詳細な分析をすることが難しくなってしまうのです。　やっとの思いで、ようやく１つの論文をまとめたのが、2008年の秋でした（『社会学研究』所収）。<br />　ちょうど2008年秋から、私は信大にやってきて、演習科目で震災について取り上げたところ、多くの受講生があつまり、また、そのうちの数人と現地に視察に行くなどしました。さらにそのうちの1人は、今春、私とは違って旧山古志村でインタビューや調査票によってデータを取り卒論を書きあげました。うれしいことに、2008年の秋に視察に連れていった学生たちの多くは、翌年も当地の地区運動会や祭りに参加したり、上述の卒論生の研究を手伝って現地に調査票の回収に行ったりと、本当に優しくたくましく成長してくれました。ともかく、少なくとも社会学の学生にとっては、社会の激変というのは、興味関心をひく題材であったのだと思います。<br />　私自身にとっても、中越地震が起こるまで、数理社会学とかネットワーク分析といった、その見た目からして冷徹そうな感じのする領域で仕事をしてきたのが、一転して、もっとも泥臭い領域に足をつっこむことになりました。被災地は農村であり、農村社会学や村落社会学という領域では、これまでもっぱらインタビューなどの質的調査が行われてきました。その中に数理や計量を持ち込むことができるのか、という挑戦がありました。最初は、農村については本当に素人同然だったのですが、現場で知らないことを教えてもらいながら、少しずつ学んでいったというのが本当のところです。そのうちに、別に農村の仕組みや農村社会学特有の概念をある程度理解してしまえば、農村だって、計量分析に乗らないわけではないと思えるようになりました。むしろ、計量ならではの切れ味があって、それはそれなりの力を持っていると思うようになりました。<br />　私の場合には、震災をネットワークが急激に崩壊したところから始まり、それが次第に埋め合わされていくという過程と捉えて研究を行ってきました。そのような視点から震災を捉えていくことによって何が見えたかについてお話ししたいと思います。<br />　また、やろうと思えば中越地震だけでも1学期間講義することはできるかなと思ったのですが、社会学的に都市と農村との比較を行うという意味でも、阪神淡路との比較を行うことは重要だろうと考えました。私の実家も阪神淡路大震災で半壊の被害を受けたということもあります。私自身はその頃留学していたので、地震の揺れそのものの体験はしなかったのですが、その2ヶ月ほど後に春休みに一時帰国し、たいへんな様子を見て回りました。また、あの震災が我が身にどのような影響を与えたかについても自分なりに考えることはあります。ともあれ、都市と農村の単純比較ではありませんが、異なる場所で地震が起こると、どのようなことが問題となって現れるのかについては、違いがあるように思います。そういったことについても注意をしながら講義を進めたいと思います。<br />　私は、この講義を社会学の専門科目とはしませんでした。1年生でも取れる共通教育科目（いわゆる一般教養科目）としています。それは、学部というような枠を越えて、理科系の人には、地質学や土木工学や建築学といったこととは異なる視点から震災というものを捉えられるようになってほしいということ、そして、文化系の人には、震災というものを題材としながら、それぞれの学問の視点からそれについて考えられるようになってもらいたいということがあったからです。<br />　この科目は副題には、「社会学入門」という言葉が入っています。震災の話はもちろんですが、包括的にとはいかないものの、社会学のいろいろな領域について紹介するようにしたいと思います。<br />　最後に、たぶんこの科目は今年限りです。来年度以降何をするかは全く決めていませんが、もし繰り返しするとしても、震災をテーマにするのは再来年以降でしょう。同じことをやるのは白けますし。このようなテーマに関心がある人は、来年度にと思わずに、今年度取ってしまってください。<br />]]>
        
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    <title>2010年度の初めに</title>
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    <published>2010-04-01T15:10:20Z</published>
    <updated>2010-04-01T15:44:16Z</updated>

    <summary>　2010年度が、特に何も変わったこともなく始まりました。2年前の今頃のことを思...</summary>
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        <name>Ryuhei Tsuji</name>
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        　2010年度が、特に何も変わったこともなく始まりました。2年前の今頃のことを思えば、はるかに安定した身の上。1年前の今頃のことを思えば、年度が一巡（以上）したことでとりあえず勝手がわかったという安心感。多少失敗しても、多少遅れても、ボスがどっしりと、しかもさらっとしてくれるフォロー。この何事もない感じは、そういったところから来ているのでしょう。年度初めのこの緊張感のなさは、ちょっと不思議な感覚です。これまで、新年度といえば、「よっしゃー、やるぞー」っという感じだったのが、嘘みたいです。普通な感じで特に何事もなく始まる新年度です。
        
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    <title>卒業式：学長の話は最悪</title>
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    <published>2010-03-22T01:59:40Z</published>
    <updated>2010-03-22T04:27:43Z</updated>

    <summary>　昨日の卒業式。学長の話は最悪の部類だった。　まず、現代の社会状況が暗いという認...</summary>
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        <name>Ryuhei Tsuji</name>
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        <![CDATA[　昨日の卒業式。学長の話は最悪の部類だった。<br />　まず、現代の社会状況が暗いという認識に立つ。まあ、そこまではよいだろう。その上で、信州大学にとって先のオリンピックでOBと現役の学生たちが活躍したことが明るい話題だったとする。そして、次に活躍するのは君たちだと来た。何、その薄っぺらい言葉。がんばれば何とかなるみたいな言葉は、現在まじめに生きている学生にはちっとも響かないだろう。人生の「あがり」に到達した学長に、学生や一般の人々がいかに苦しんでいるのかなど理解されていないのではないかと不信感をもった。言及された３人のオリンピック選手も、そういった取り上げられ方をするのは、決して望まないのではないか。何か、学長の話の取り上げ方は、うちの大学にとって宣伝になったというような雰囲気しか感じられず、あまりに即物的な印象が強かった。<br />　しかも、工学部からの学長ということもあるのか、技術立国論をぶつ。新しい技術革新によってしかこの社会状況を打破できないと。本気かよ。オレは確かに聞いたぞ。それ「しかない」と。ここは工学部の卒業式じゃないんだよ。もう少し他の学部、特に文化系の学部の教育内容にも配慮したらどうか。というか、文化系の学部の存在意義について全く理解できていないのではないか。しかも、大学で学んだ「正義」を活かしてなんておっしゃる場面もあったが、学長の考える「正義」とは何かと問い詰めたかった。<br />　それから、「環境マインド」とかいう言葉にもふれていたが、卒業生たちが環境マインドを持てば、また、それが日本全国に広がれば、日本はよくなるみたいな言い方も失笑ものであった。そんな簡単に広がるものだったら、誰も苦労してないよと。「社会的ジレンマ」って知ってる？　と問い詰めたかった。あまりにもおざなりな話は苦笑を越えて失笑を禁じえなかった。<br />　推測だが、古い技術立国論では受けないと思って、環境マインドなんていう話を持ち込んだのだと思う。しかし、オバマ政権などに顕著なように、学長の話も、環境技術で世界を先導できるようになれば、経済を立て直すことができるといった、結局あくまでも金儲け主義的な発想でしかないのではないかという臭いがした。環境の中に住む人々の生活や文化へのまなざしのようなものへの言及は一切なかったからである。それが工学人的発想なのか。そうは思いたくない。環境を経済・政治の道具として扱うことには、端的に賛同できない。<br />　今日の「信州毎日新聞」も記事を書くのに相当に悩んだものと思われ、学長が「バンクーバー冬季五輪に在校生、卒業生合わせて３人が出場したことに触れ、「次に活躍するのはあなた方」と激励」くらいしか書いていない。あまりのひどさに書けなかったんだと思う。それに比べて、卒業生を代表して謝辞を述べた人文学部の学生の文章の方が比較にならないほど感動的ですばらしかった。<br />　とりあえず、学長には、専門外のことについてももう少し勉強していただいて、学生を小馬鹿にしたようなおざなりな話は金輪際やめていただきたいと思う。４月の入学式には、もう少しまともな話を望みたい。<br />]]>
        
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    <title>調査実習報告書をまとめるのに苦労したこと</title>
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    <published>2010-03-19T15:00:50Z</published>
    <updated>2010-03-19T21:54:27Z</updated>

    <summary>　今年も必死のパッチで（古語）調査実習の報告書を完成した。この過程で苦労したこと...</summary>
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        <name>Ryuhei Tsuji</name>
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        <![CDATA[　今年も必死のパッチで（古語）調査実習の報告書を完成した。この過程で苦労したことなどをぼやき混じりにまとめておこうと思う。全国の社会調査士を出す大学の担当の先生方にも、また、社会調査士を目指す学生さんにも、某信州大学担当教員のぼやきをお届けしたい。皆様の多少の参考になれば、なんてことは実はどうでもよくて、ただぼやいてみたいのである。野村前監督と同じ誕生日（もちろん年は違うが）の性である。<br /><br />　信大社会学分野では、ここ数年、自治体と協定を結ぶなどして、調査実習を行ってきた。そのあらましについては、うちのM先生が社会調査協会の機関誌『社会と調査』第3号に記事を書いておられるので、それを見てほしい。ともかく、自治体の協力を得ながら調査をするので、非常にやりやすいところが多い。今年度の青木村調査の場合には、村内放送などでも呼びかけてもらっていたようで、回収率は75%を超えるなど、ちょっとこれ以上望めないくらいであった。<br />　しかしそれは、協力していただいた自治体に対して、「きちんとした」お返しをしないといけないということでもある。その中でもっともたいへんなのが、とにもかくにも年度内に報告書をあげなければならないということである。<br />　前任校では、社会調査士の課程を担当していなかったので、調査をやったら、回答者のうち希望者に対して数ページ程度のフィードバックを行う程度であった。それも、院生にずいぶんと任せるところもあった。わたし自身はSSMなどの調査にはかんでいないので、本格的な報告書をまとめるという作業は、信大に来て初めてだった。その報告書は、社会調査協会に提出しないといけないのに加えて、協力してもらった自治体にも納めなければならない。前者だけならば、正直なところ何てことはない。他大学のもののレベルもだいたい知っている。うちの学生でさえ、「何だこんなものでいいの」なんて言っている。真の相手はそんなところではない。協力してもらった自治体である。協定を結ぶということは、その自治体に対してそれなりに「役に立つ」ものを提出することを要求されることなのである。<br /><br />　信大の社会学分野では、だいたい次のような形で報告書をまとめていく。まず、学生がデータの分析を行い、それを班ごとにまとめて提出してもらう。教員は、分析時にはアドバイスをし、提出されたレポートに対してコメントをし、その都度再提出してもらうという過程を何度か繰り返す。各班から提出されるレポートは、およそ15～20ページくらいである。この分量は、わたしがコミットしている雑誌でいえば『理論と方法』の1論文くらいに相当する。査読をしたことのある人ならイメージしてもらえると思うが、研究者が書く論文ではないので、分析そのものがまずいこともあるし、文章が稚拙なところもある。（ただ、文章の稚拙さという意味では、自分もこのブログのような感じの文章書きなので、学生と比べてあまりものが言える立場ではない...苦笑）　また、学生は、レポート用の文章とか報告書用の文章とかいってもよくわかっていない。（まあ、かくいうわたしも、そんなによくわかっているわけでもない。）　このような状態で、今年は3班分の調査票調査の分析について担当した。（M先生は、3班分のインタビュー調査を担当した。）<br />　原稿を印刷屋さんに渡すのが、今年の場合、3月中旬。学生とのやりとりができたのは、実質3月初旬まで。そのあと、わたしは、数理社会学会の学会事務局をやっていることもあって、春の学会大会の準備があったり、今年の場合は、受託研究の方でも報告書を出さないといけないといったこともあったりして、多忙を極めた。ここ2週間くらいは、平日はほぼ連日大学に泊まり込みであった。うちの大学には勤務時間表を提出しないといけないという何ともひどい制度があるのだが、もう今日の時点で今月分は200時間に迫る勢いである。過労もいいところである。たまにうちでベッドで横になって寝られることの幸せなことよ。3月初旬からひいた風邪が治りきらないとか、湿疹がかゆくてたまらないとか、弱り目に祟り目、泣きっ面に蜂、という状態であった。<br />　自分では、そんなに要領の悪い方だとは思っていない。しかし、こんなにたまってしまうと、オーバーロードである。一週間に３，４日の徹夜は慣れているが、毎日ほとんど寝ずに2週間も過ごすと、さすがの自分でも意識が朦朧としてくるのがわかる。ちょっとパソコンに向かっていたら、1時間のつもりが3時間だったとかいうようなこともある。現代風「時計仕掛けのオレンジ」である。<br />　とまあ、そんな感じでもって、報告書をまとめるのである。<br /><br />　学生に班で作業をさせるメリットとデメリットは、次のようなところにあると思う。まず、メリットとデメリットのどちらが大きいかと言えば、メリットの方が大きい。特にうちのような、ほとんどの学生が一人暮らしといった場合、大学が閉まっても、どこかの学生のところで作業をやっているようである。チキンゲームでいつも負けるやつが犠牲になるのだが、いつまでに何を出せというと、学生たちは何とかしようともがくのである。多くの場合。しかし、デアデビルばかりの班もあり、その場合は最悪である。打っても響かない。とにかく、学生の中でチキンは誰かを把握して、チキンを必ず1人は班に入れることが重要である。あと、2月3月になると、3年生は「就活」を武器に、仕事をしなくなる。肝心なときに仕事をしてくれないので、もともとチキンな自分は、結局その仕事を引き受ける羽目になるのである。クソ、C班め！　...たぶん、そのうち、大学院生を毎年1人ずつくらい生産できるようになると、ちょっとは楽かもと思ったりするが、これは密かな野望である。←と書いた時点で、すでに学生には読まれている。<br />　話を戻すと、班でやらせるメリットは、やっぱりアイディアを出し合ったり、わからないところを教えあったりして、全体のパフォーマンスはずっとよくなることが多いということである。これにつきる。教員が1から10まで手取り足取り教えることはできない。班にすれば、お互いに教えあったりして、かなりのレベルまで自分たちだけで到達してくれるのである。実際、因子分析や重回帰分析というのは、学部レベルではゴールであると思うが、ただSPSSを動かせばよいというものではない。行き届いた配慮も必要である。そのあたり、わたしの目で見て100%までは到達しなくても、7，8割くらいまで到達できる。また、全員ではないが、知らず知らずのうちに、SPSSのシンタックスが書けるようになっている学生も多い。互いのコミュニケーションのために必要になるのだろう。こちらから、シンタックスも一緒に出せというと、それなりに対応してくれる。いやーもう、信大の社会学の学生は、本当にどこに出しても役立つこと間違いなしである。こんな優れたうちの学生たちを落とす企業はバカだというほかはない、と密かに思っている。<br />　次にデメリットだが、さぼるやつはさぼるということである。同じ班で1年間やるので、ずっとさぼりつづけることはふつうの人間ならできない。しかし、そういうことができてしまう人も実はいる。こちらが秘訣を教えてほしいくらいである。対応策は、わからない。ただ、わたしは小心者なので、強く言うことはない。しかし、...こういう人ってたいてい1年くらいは...危なすぎるので以下略。いや、まじめにいうと、学ばずに終わってしまう学生が少数ではあるが出てくることである。ただまあ、そういう学生は、どういうやり方をしてもそうであるので、班だからだめだというようなわけではない。むしろ、1人だと諦めてしまう学生を拾い上げることができる方がずっとメリットとして大きい。<br />　そんなわけで、ふだんから、学生たちがどういう活動をしているか、きちんと目配りをしておくことが必要である。<br /><br /><div align="right">ちっとも話が進まないな。<br /></div><br />　ともあれ、班で分析させるところからである。多変量解析が好きな学生というのが出てくる。自分が学生のときもそうだったが、重回帰分析を習うと、ものの見方が変わるような気がするようである。重回帰分析にはまった学生たちは、猿のように重回帰分析を使いたがる。重回帰分析の最大のポイントは、多重共線性のチェックにあると思う。学術論文ではVIF値が表記されることはないが、習得段階ではVIF値を意識させたり、場合によっては併記させたりすることが重要であると思う。教科書によっては、VIF=10まではOKなんてのもあるし、多くはVIF=2くらいまでを許容範囲としている。しかし、個人的な経験では、VIF=1.6が目安だろうと思っている。わたしは友人の研究者たちにも「VIF=1.6だ」と言い続けていることもあって、「辻基準」などと言われているとかいないとか。しかし、本当に、1.6を超えると、何か変な感じがするケースが出始め、2を超えると完全にアウトというような感覚がある。農村で「年齢」と「居住年数」を同時投入してみると、だいたい2を超える。どっちかが＋でどっちかが－なんてことになるはずである。教科書にあるVIF=2は、完全にアウトということなのであって、実際には、1.6あたりから変な感じのものが出始めると思っておいた方がよい。学生には、VIF=1.6くらいを目安にさせる。1.6を超えたら声をかけてもらってチェックするようにしている。まあ、あとは、好きにやれという感じである。分析段階から、変なことをやっていないかきちんと目配りをしておくと、あとでこちらが全て分析をやり直さないといけないという可能性をいくらか減じることができると思う。こうして、1つ1つの分析については、まずまずの感じの分析ができてくる。<br />　今回の反省は、その後のことである。各班のレポートは、だいたい、3つ4つくらいの分析を含んでいた。ここで問題は大きく2つである。1つは、それらの分析が独立していてバラバラで、全体としてのストーリーがないということである。ただ3つか4つかの分析が羅列してあるという感じなのである。それを報告書の形に持って行くのは、なかなか至難の業である。卒論だと、1人が複数の仮説を立て、それらは、ほぼ自動的に（というほどでもないが、まあだいたい）流れになるわけだが、複数の学生からなる班で作業をさせると、全体の統一感よりも、まず各自がやりたいことが優先されるので、出てきたものはまとまりのないものになってしまうのである。ひどい場合には、どうやってまとめたらよいのかわからない。教員だからできるといったものではない。できないものはできないと思う。しょーがないから、エイヤっと切り落とす何てことをしないといけなくなる。そこで、今回思ったことは、仮説は3つまでにすることである。2つだと簡単。ともかく、2つの仮説の共通点を見つけて一本の線でつなげばよい。3つの場合も、流れがストレートであれば、起承結的に、ややまとまりがなければ、起転結ないし起承転的にすればよい。ちょっと曲げる感じである。しかし、4つになると、どうしてもまとまらなくなるものが出てくる可能性が強い。カーブを投げて、3つまで的に当たっても、4つめがシュートじゃないと当たらないというのでは、話がぐちゃぐちゃである。隣の分野のS先生も、仮説がたくさんあって、脈絡がないので、どうやってまとめてよいのかわからないといったことを述べられていた。本当に同感である。各班の仮説は3つまで。今後はこれを徹底し、自分たちでストーリーを描いてみるように指導してみるのがよいと思う。<br />　ところで、仮説は、ちゃんと作らせることが重要である。「○○と××は関係がある」といったものは不可とすべきである。必ず、「○○が増えると××は減る」といったように正か負の方向をもった仮説（交互作用があってもよい）を作らせることである。理由はこうである。「○○と××は関係がある」といったことは、バカでも言えるからである。どんなバカでもその程度の安直なことはとっさにでも思い浮かぶ。しかし、正と負のどちらの関係かまで考えろというと、それは単純ではなくなるからである。「えー、そんなんじゃバカでも言えるよ。『食ったら腹がふくれる』とかさ。」　まあ、確かにそういうものもあるかもしれん。しかし、そういうことってわざわざ論文にするために必死になるような問題じゃないよね。「風が吹けば桶屋が儲かる」ってのは？　それはちょっと因果の連鎖が遠すぎるよね。一度の研究では無理だね。まあ、どういう問題が検討するに値するかどうかは難しいところもあるが、ともかく、方向を含む仮説を考えろというと、学生たちは、ああだこうだ、ああでもないこうでもない、と考えを巡らすようになる。ここでも、班でやるのはよいことである。自分の考えが他者にも納得してもらえるかどうかをチェックしながら進められるからである。論理に飛躍がありすぎると、「ええ、何で？」と言われてしまう。少なくとも班の中で誰もが納得できるような仮説を作り出せたとき、彼らの手元には、思考時に出てきたパス図やら、ある結果に対する原因の候補の羅列がある。それがすなわち、重回帰分析に入れるべき説明変数となる可能性が高いのである。つまり、仮説を作りながら、同時に、将来的にどういう分析をすることになるのかまで同時に見通せるようになるわけである。もちろん、その間にある質問紙調査の過程で、どの質問が原因の部分であり、どの質問が結果となるか、また、さらに、どのような質問を統制変数として入れなければならないかまでわかるようになるのである。最初の仮説を徹底的に考えることはきわめて重要である。そこがいい加減だと、後が続かなくなる。あるいは、続いてもしょーもないことしか出てこない。仮説の段階で、最後によい結果を得られるか、すでに大部分が決まってしまうといってよい。ともかく、仮説段階でじっくりと時間を取ることが重要である。<br />　反省の2つめは、仮に仮説が直線や曲線でつなぐことができても、学生たちはそれぞれの仮説について分業で分析することになるので、統制する変数が、それぞれの分析においてバラバラになってしまうことであった。たとえば、一方では、村への愛着という目的変数に対して、居住年数を統制する。もう一方では、村の行政への関心という目的変数に対して、年齢を統制するといったばらつきが生じてしまうのである。しかし、そのようなレポートをもとにして、報告書の形に仕上げようとすると、何か気持ち悪いので、全ての分析においてなるべく統制する変数を統一しておいたほうがよいと思うようになるのである。たとえば、全体として、年齢ではなく居住年数を統制することにしようといった判断をすることになる。そうすると、結局のところ、分析はたいていやり直しになってしまうのである。これは、今まで気づかなかった点である。自分が論文を書くときには、どの分析についても、なるべく統一的に統制変数を決めるというようなことを、我々は意識的にか無意識的にかやっている気がする。しかし、学生たちは、放っておいたら、そんなことはお構いなしである。「学生のやった分析に、全部手を入れなければならない」といった嘆きの声を学会の懇親会で聞くことがある。それはなぜかというと、学生がそもそも分析手法について根本的にわかっていないという場合と、学生はある程度は理解しているし、1つ1つの分析は間違っているわけではないのだけど、全体としてまとまりがないという場合があるのではないかと思う。前者については軽くクリアできるレベルの学生のいる大学であれば、後者については、もしかすると、学生に注意喚起をすることで、ある程度改善されるのではないかという気がするのである。<br /><br />　長くなったが、これで班で行う作業のメリット・デメリットという話から迂回してきた意味もわかっていただけよう。要は、班で作業させるときにはそれなりに注意が必要であるということである。まだ気づいていないこともあるかもしれないので、また、思いついたら追記するなり別の記事を書くなりしようと思う。<br /><br />　ともあれ、朦朧としながらも編集の作業が終わった。印刷したものが配布されるのは、来年度の調査実習の初回だろう。毎年、信大社会学では、2年生と3年生の2学年が協同して社会調査実習を行っている。今年度メインでがんばった3年生は4年生になるわけだが、とりあえず、自分たちが書いたものが、どれだけ変貌を遂げたのかを詳細に検討してほしい。それがよい勉強になるだろう。また、今の2年生は、特に調査票調査の分析については3年生任せだったと思う。4月からのSPSSの授業（SPSSで多変量解析ができるようにする授業）では、報告書に載った分析を再現してみることによって、今年度やったことの意味をきちんと理解できるようにしていくつもりである。<br />　しかし、ようやく一区切りがついた。これにかかりっきりだったので、他の仕事が全然できていない。あと10日でやらないといけない仕事量に、再び呆然とするところである。<br />]]>
        
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