紀田順一郎『名前の日本史』を読んで

 この春休みは忙しすぎて,ほとんど何も読めなかった.たぶん,私は研究者としては致命的に本を読むのが遅い.前任校の別の学部にいたある人は,バスの中でも本を読んでいる姿をよく見かけたが,車酔いしないのかと案ずる一方,本に対する執念を感じたものだが,私にはそんなものは皆無である...苦笑.本に書いてあるようなことは,自分で考えればよいとかテキトーなことを思ってごまかすからである.
 さて,表題のこの本だが,たまたま本屋で見かけて昨夏くらいに買って積ん読状態だったものを読んでみたという次第である.一言で言えば,日本人の「名前」がどのように変遷してきたのか,またその背景は何かといったことを書いたものである.
 うちの学部にも歴史の研究者は大勢いらっしゃるのだが,恥を忍ばず開き直って言えば,私には崩し字は読めないし,古文書を読んだこともない.うちの歴史系の学部生以下である.(「歴史系の専門家の先生方,こんなのが同僚でごめんなさい」としか言いようがない.)そんなわけで,歴史系の話となれば,単なるアマチュア好事家の根拠のない話も,専門家の話も,本質的に何が違うのかよくわからない.買う前に著者の経歴は見るけれども,果たしてそれでどれだけの判断ができるのかもよくわからない.この著者の経歴も,言葉は悪いが全くよくわからない.そんなわけで,読みながらも,「えー,ほんまかいな」とか,「まあ,鵜呑みにはせんとこ」とか思いながら読んだわけである.
 明治以前の名付け方がどうであったかということ,また生涯を通していろいろな名乗り方が比較的自由にされたこと,それが明治になって1つの姓と1つの名とすることになったこと,その反動で雅号などを称する人が増えたり減ったりしたことなどが大きな流れである.そのあたりのことは私自身が検証する術を持たないので,ただ信じるしかないわけだが,出典が不明とか,論拠が今ひとつよくわからないところもあり,半信半疑とならざるをえなかった.
 第6章は,明治以降の人気の名前の変遷である.このあたりになると,社会学的に読める部分もでてきて,疑いは根拠を持って大きくなる.たとえば,「明美」という名の盛衰について,昭和32年からベスト10入りしたが,「風俗産業の源氏名の定番となるにいたって,わが子の名としてはふさわしからずということになり」凋落したとあるが,源氏名効果がどのくらいあるのかについては,どんな形で検証しているのか全くわからない.確かに何かの流行歌の歌詞に読み込まれたものがあった記憶があるが,そういったことがどれだけの社会的効果をもたらすのかは,そもそも検証方法が確立されていないということもあると思うが,わからない.源氏名うんぬんは,単なる根拠のない推測に過ぎないように思われる.
 また,昭和50年代の名前は,タレント名やアニメの主人公の名前を「そのまま引き写しにした」ものが多く,平成にはいると「漢字のイメージを重視する傾向」になるという.そのあたりも名前1つ1つ検討したのかよくわからないという感じがする.さらに,近年の当て字的な名付け方については,「起源をたどれば劇画やアニメに行き着くであろう」というが,起源をどのようにたどればよいのかという方法論上の問題がクリアではなく(実際に何らかの具体的な方法でたどってみたとは書かれていない),単なる推測にすぎないのではないだろうか.これでは,俗説でしかない.
 社会学を専攻する学生は,卒論のテーマを考えるときに,映画やファッションなどを取り上げようとすることが多いが,彼らが構想初期の段階で決まって言うのは,「どのような映画が作られるか(人気があるか)は,その時代の雰囲気と関係があります」というようなことである.しかし,このような言明は,他の分野はいざ知らず,社会学では,ひどくたたかれることになる.どのような方法をもってすれば,そのようなことが言えるのかがわからないからである.資料を集めればよいということでは,許されないことも多い.その資料が特定の時代を「代表」していると言えることをどうやって担保するのかという問題がつきまとうからである.学生たちは,当初,「質的分析」を行えばよいというようなことを考えがちだが,重要なことは分析方法以前に資料の代表性である.
 この著者の本当の専攻が何なのかはよくわからないままだが,全体として感じることは,結局,代表性の問題であるように思われる.自分の言いたいことにそって場当たり的に例を提示するというやり方を,私はかたくなに拒否してしまうのである.やろうと思えば,私は著者の主張と全く逆のことを例を使って示すことができるかもしれない.例を挙げるだけでは,根拠としては全く不十分なのである.
 そんなわけで,私が評価しうる範囲において,この本の内容をそのまま受け入れることは,私にはできなかった.また,過度の一般化かもしれないという留保が必要かもしれないが,私の評価できない歴史的な部分についても,どこかしらに怪しい記述が多いのではないかと疑ってしまったのである.
 新書には当たり外れが大きいが,これが当たりか外れかはよくわからない.それは,ひとえに,論拠がきちんと示されていない記述が多すぎるからである.その意味では外れであるが,論拠がきちんと示されれば当たりに化ける可能性もある.まあしかし,現状では外れと言わざるをえないだろう.

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このページは、Ryuhei Tsujiが2010年4月 7日 09:40に書いたブログ記事です。

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