17 4月

行動制限と接触制限との関係

最終更新日時:4/17/20 1:10ごろ

西浦博氏は,7都府県の緊急事態宣言の後に出されたこのツイートで,「なぜ8割の行動制限が必要なのか」という説明を行っています.この説明で,行動制限の割合を表す変数がpです.そして,これに続くこのツイートでは,「接触が8割減った社会のイメージ」について説明しています.この後のマスメディアの報道では,新宿や澁谷,梅田などの人出が,緊急事態宣言の前後でどのくらい減ったかをとりあげ,それがなかなか8割に達しないことを嘆くような論調です.
ところが,次のような疑問があります.「行動制限」と「接触制限」とは同じことでしょうか? また,pは,どちらに解するのが適切でしょうか?
ここに添付したPDFファイルで,簡単なモデルを用いて考察しました.
その結果,行動を8割ではなく5割6分削減すると,接触率はもとの2割程度となることがわかりました.
なお,計算には,Mathematica 12.0を使用しました.

⾏動制限と接触制限との関係

03 9月

Linton C. Freeman 先生を偲んで

8月17日の朝(現地時間),Lin Freemanが亡くなったとの知らせが届いた.日本では,日が変わって8月18日の午前3時頃,私は,寝る直前だったが,あまりの驚きと溢れ来るさまざまな思いのために,しばし呆然としてしまった.

1992年,修士課程2年(M2)のゴールデンウィーク明け,突如として留学することになった.自分からしたいと言いだしたというよりは,指導教員の髙坂先生から説得されたという方が近い.しかし,決めたからには準備をしなければならず,修論(これはめどはたっていた)と並行して,TOEFLとGREの準備をすることになった.夏休み中は南方のイフ外語学院に通って英語漬けだった.
大学院の受験申請期間を考えれば,TOEFLを受けられるのは2回か3回,GREは1回だけだった.
結局,TOEFL(当時は,ペーパー)は550点を超えたが600点に満たず,GREは,vervalとmathで1100点ちょうどだったので,申請先も限られていた.
実際に,年末頃から何校かにアプリケーションを送ったが,次々とリジェクトの手紙が届いた.
残るは1校,University of California, IrvineのGraduate Programme in Social Network Analysisだけになった.
思い切って電話をして,何とかしてもらえないかと言ってみることにした.
そこで私は,初めてプログラムのチェアだったLinton Freeman先生と話したのである.「奨学金が用意できないんだ.それでもよかったらアクセプトするけど.」「はい,お金のことは何とかしますので.」
1993年4月6日付けで,Letter of Accceptanceが送られてきた.
家族とともに,飛び上がって喜んだ.

1993年6月,大学院の授業自体は9月からだが,語学に不安もあったので語学学校に入るために渡米した.
すぐにUCIの彼のオフィスを訪れて挨拶をした.
彼は,ポライトに,明るく迎え入れてくれた.「これからは,Linでいいよ.」
そしてすぐに,彼は飾ってあった大伸ばしにした写真を壁からはがし,”I surf.”と言った.そこには,誰かが撮った彼のサーフィンする姿が映っていた.
この頃は,アメリカでもe-mailやWWWが使われ始めた頃で,その後彼が作った最初のホームページには,”I surf.”として,彼のサーフィンする写真が載っけられていた.

9月,彼の「相互作用モデル(interaction models)」というセミナー形式の授業が始まった.それは,彼の最後の授業であった.それは引退の前年度だったのだった.
彼のセミナーでのスタイルは,まさ自由人であり,彼のファミリーネームのとおりであった.テーブルの上に脚を上げ,何かを飲みながら,くつろいだ格好で話をするのだ.服装も,いつでもサーフィンに行けそうな格好で,Tシャツに半パンだった.「えっ,センセー,金○,丸見えでっせ.」
それはそうと,リンは,私を今年の新入生だと紹介し,言葉が難しいと思うので,誰か見てやってくれということで,Jeff Sternという上級生を紹介された.また,セミナーを録音して後で書き出せばいいよと言われたので,テープに録音することにし,聞きそびれたことなどを後で聞き直してノートに補足し,それをジェフに見せて直してもらうということをやった.(あのテープは,帰国のさい,荷物の容量オーバーのため,JeffかFitzに預けた気がする.)
最初の授業では,文献リストが配付され,次週以降,その中の論文を院生が1人1つずつ割り振られて紹介するという形式だった.
私は,たまたまリンの書いた論文を担当することになった.単に紹介するだけではなく,コメントや疑問点を差し挟みながら紹介することが慣例のようだったので,私は,「バカな学生を取ってしまった」と思われないように,頑張った.しかし,頑張りすぎたようで,若干コメントが辛辣な感じになってしまったようで,リンはやや憮然とした感じの表情をしていたような気がする.しかし,そんなにバカじゃないとは思ってもらえたように思う.
その授業をはじめ,最初の学期の成績は,全てA(Sはないので,それがGPA換算で4.00)だったので,安心した.

1994年度から,リンは名誉教授となったが,彼自身は授業は持たないものの,オフィスは維持しており,院生の指導などもしていた.
私のプログラムは,コースワークが2年だったので,2年目になると,ぼちぼちdissertation(博士論文)のことも考えるようになり,構想を相談するようになっていった.
私の指導体制としては,リンとJohn Boydがco-chairということになった.
そこに,1995年1月の阪神・淡路大震災が起こったのである.
実家は被災して半壊であった.
私はすぐに今後のことについて相談した.1つは仕送りが危ういかもしれないこと,もう1つは,博論をどうにか早くあげる方法はないかということだった.
前者については,秘書のKathy Albertiさんに相談し,年度内の授業料分の無償奨学金を整えてもらえることになった.(結果的に,辻家では,日本政府からよりもアメリカからの方が多くの支援金をもらったのではないだろうか.)
しかし,問題は後者であった.
修士論文を書く頃までは,合理的選択理論など個人主義的な理論に馴染みすぎていたせいで,構造主義的なネットワーク分析の思考法に転換できなかった.震災を機に,何とか早く出してもらえないかと相談した.気持ちは理解してもらえたが,研究の方はなかなかうまくいかなかった.博論のアイディアを持っていっても,これは,個人主義的な考えを脱せていないとか,構造主義的な考え方になっていないとかで,これではだめと何度も言われ続けた.2年間のコースワークが終了するタイミングでも,何も決まらず,3年目に突入した.たぶんしびれを切らされたのだろう.ある日,手始めにUCIの学生寮に入り込み,そこで観察したりしながら,みんなと顔なじみになり,それからソシオメトリック・テストをやってみるようにと言われた.そして,そのデータを分析し,何とかPh.D. candidate(博士候補生)となるところまでは認めてもらった.既に1997年の春になっていた.私としては,この続きでデータ分析を完了すれば,学位が取れるかなと思っていた.
しかし,リンとジョンからは,次のように申し渡された.リンとジョンはチェアから降り,代わりに,Douglas Whiteがチェアとなる.ジョンは,博論審査の委員会のメンバーとしては入るが,基本的にダグのそのもとで何か実証研究をやること,と.リンは,完全に外れてしまった.その後,博論を書き上げるまで,リンとは,何か気まずい雰囲気が流れていた.
ともあれ,その後に起こったことは,先日,山岸俊男先生の追悼文に書いたような次第であった(山岸俊男先生を偲んで).1997年秋から1年間,北大の山岸先生にお世話になり,98年の秋にUCIに戻り,それから半年強で博論を書き上げて帰国した.99年の5月だった.

時は流れて2004年12月,私は,日本学術振興会とアメリカのNSFが共催する,「日米先端科学シンポジウム(JAFoS)」に参加することになり,開催地がUCIの施設であったことから,合間を縫って指導を受けた先生方のオフィスを回った.ちょうどリンはオフィスにいたので,前年にワッツの『スモールワールド・ネットワーク』(原題:Six Degrees)の翻訳をやったのでそれを手渡した.すると,リンは,自分も最近本を出したんだけどと,その本を手渡され,それを翻訳してくれないかと頼まれた.
思い返せば,これがリンとの最後の対面での出会いだった.
想定外なことで面食らったが,内容的にはやれそうに思われたので,その場でお引き受けした.何よりも,他の人が翻訳するよりも,自分がやるのが日本中探しても一番よいと思ったからだ.単に翻訳をするだけでなく,リンの授業などで聞いていた話なども盛り込めると考えたからだった.
その後,出版社を見つけたり,日本語版へのまえがきを書いてもらったりと,何度かメールのやり取りをした.
しばらく時間がかかってしまったが,翻訳は2007年5月に『社会ネットワーク分析の発展』としてNTT出版から出すことができた.
それから間もなく,リンから「ありがとう」とメールがあった.
そのときの何度かのやり取りが,リンとの本当に最後のやり取りになってしまった.
その後,何度かSunbelt会議にも参加したが,リンと会うことはなかった.また,2016年秋からの半年のUCIでのサバティカルの間にも会えなかった.あの時,無理をしてでも,サーフィンをしているであろうフロリダに会いにいっておくべきだった.

私の授業では,リンの中心性指標の話をしたり,また,『社会ネットワーク分析の発展』に従って,これまでの発展史を語ったりすることがある.その都度,リンは今どうしているだろうか?と思ったりしていた.
2017年9月,ハリケーンIrmaのため,リンと妻のスーは一時友人宅に避難した.自宅に戻った後,スーは,その夜ベッドに入ったまま目を覚まさなかったという.
それから1年も経たないうちに,2018年8月17日,リンは,その後を追うように亡くなった.
リンが,自分の学生であったスーに統計学を教えるために書いた教科書 “Elementary Applied Statistics: For Students in Behavioral Science” (1965) は,スーに何度も読んでもらい,彼女がわからないと言ったら書き直すという作業を何度も重ねて書かれたものだった.結果として,非常に分かりやすい内容となっている.
時折二人がケンカをするところも見られたが,それでも見ていて深い愛情の感じられる夫婦だった.リンのスーを見る優しいまなざしが印象に残っている.

「お前が,日本で一番有名な社会ネットワーク分析の研究者になったら,日本に呼んでくれ」と言われたのは,いつだっただろうか? 候補生になるときの告知を受けたときだったような気がする.
それだけは,実現しなかったことを残念に思う.本当に.
しかし,あの日の電話で,快く私をUCIに受け入れてくれたことには,深い恩義を感じる.それがなければ,自分が今のような姿であったことは,絶対になかったからである.
リンのご冥福を心よりお祈りします.

23 6月

Stataで連番の変数同士の処理を繰り返し行って行列にスカラー値を格納し,その行列の要素の値を条件に従って変換する方法

Stataで,うまいやり方がわからず四苦八苦したので,また後にも役つはずと思うし,参考にすることも多いと思うので,載せておく.

連番となっている変数 x1, x2, …, x10 をループを使って総当たりにして,
たとえば,Wilcoxonの符号検定(signrank)を行って,そのz値を10×10の行列 Z に格納する.

matrix Z = J(10, 10, .)

forvalues i=1/10 {

forvalues j=1/130 {
quietly signrank x`i’ = x`j’
matrix Z[`i’,`j’]= r(z)
}

}

ここでのポイントは,signrankによってz値がスカラー r(z) として吐き出されるので,それを行列 Z の適切な場所に格納することである.

さらに,行列Zの各要素 Zij において,値が1.96より大きい場合に,その要素を1に,1.96以下の場合に,その要素を0に変換する.
(細かいことだが,以下の例では,欠損値は欠損値のままとし,対角要素は0とすることにする.)

matrix Z2 = Z

forvalues i=1/10 {

forvalues j=1/10 {

if Z2[`i’,`j’] <= 1.959963984540054 {
matrix Z[`i’,`j’] = 0 }
if Z2[`i’,`j’] > 1.959963984540054 {
matrix Z[`i’,`j’] = 1 }
if Z2[`i’,`j’] == . {
matrix Z[`i’,`j’] = . }
if `i’ == `j’ {
matrix Z[`i’,`j’] = 0 }

}

}

ここでのポイントは,matrixを変換するときには,変数の値を変換するreplaceのような関数は使えない.
行列の要素を変換するには,上述ようなやり方が有効である.

20 5月

山岸俊男先生を偲んで

先日,以前大変お世話になった山岸俊男先生がお亡くなりになったと,北大の関係者から連絡を受けた.翌日には,海外のウェブサイトで追悼文が出されたので,公開になったものと考えて,山岸先生とのことを書き残しておきたい.

私が山岸先生と出会ったのは,1991年,私がM1のとき,東北大学(当時)の海野道郎先生が代表の社会的ジレンマの科研費プロジェクトにおいてであった.山岸先生は毎回参加されていたわけではなかったように思うが,当時から押しの強い,いかにもアメリカ帰りという独特の雰囲気を持った方であった.

時は過ぎ,私はアメリカに留学していた.3年ほどでコースワークは終えたが,dissertationの研究計画がとおらず,はや1年になろうとしていた.プライドが妙に高すぎる学生だったが,何度計画を持っていっても,これじゃダメだと言われ続けたので,さすがにすさんだ気持ちになっていた.見かねた当時の指導教員が,基礎力はあることは認めるので,候補生candidateにしてやるけど,その代わり,今後は,指導教員を変更することと,実証研究をやることが学位取得の条件だと言われた.

これは,困ったことだった.当時まで,数理モデルやシミュレーションに関心があったのだが,実証研究をやったことがなかったのだ.いきなり実証研究をやれと言われても,どうすればよいのか皆目見当が付かず,また,アメリカ人を対象に何か調査をするということは,言語運用能力という点でも問題があると思われた.

そこでふと思い出したのが,北大の山岸先生だった.どうやって連絡を取ったのか忘れてしまったが,とにかく,かくかくしかじかの理由で実証研究がしたいので,研究生として受け入れてもらえないか打診した.すると,大量の論文やらドラフトが送られてきて,今北大でやっているプロジェクトに関心があるならどうぞと,また,決める前に,本当にそれでいいか確かめにおいでと言われて,一旦帰国し,1週間ほど山岸先生宅に泊めてもらいながら研究室の様子などを見学させてもらったりした.それで,お願いしますということになり,97年の後期から1年間ということで受け入れてもらうことになった.

1年間という短い期間ではあったが,実験研究の手ほどきを受け,dissertationのために必要なデータを何とか取ることができた.また,それまでの自分と比較して,いろんなことに気づかせてもらった.アメリカでは自分ではそれなりにやってきたと思っていたが,北大の院生の人たちを見ていると,はるかに勉強や研究をやっていること(もちろん,1人で黙々とやるのも悪くないが),プロジェクト型で研究を進めると効率がよさそうなこと(これは,後進の養成という点では,よい面も悪い面もあるが)など.dissertationのために必要なデータを取らせてもらったこと以外に,本当にたくさんのことを学ばせてもらった.また,当時の院生・学生や,時折やって来る(年齢的にはむしろ近い)OB/OGと知り合えたことも大きかった.

この期間で忘れがたいのは,山岸先生の「男らしい運転」と,それで連れて行ってもらった(今ではすっかり有名になった)ラーメン屋,すごい構造のご自宅(兼事務所),北大での院生の育て方(他大学とどう違うか),口癖,靴下,などである.そして,ちょうどそのときに,先生の50歳の誕生日をみんなでお祝いしたことが,最も楽しい思い出である.

その後も,山岸先生やそのつながりから,いろいろなことがあった.

学位を取得して帰国し(1999年初夏)就職活動を始めたが,苦戦していた.もう2000年度からは無理かと思いかけていたとき,北大OGのHさんから,東大の社会心理学研究室で助手を募集しているのに出さないかと声を掛けていただいた.どういうわけかうまくいき,思いもかけず,自分なんかには無縁と思っていた東大に勤めることができた.

その後,2003年春からは,明治学院大学で専任講師として就職したが,そこで,東大よりは,北大の研究室のような指導法で学生・院生を指導した.5年しかいなかったが,そこで学部から育てた院生たちが修論をもとにして投稿した論文が,学会賞や奨励賞を受賞するなど,山岸先生の研究室運営の仕方についての教えが大いに役だった.

しかし,その後,信州大学では社会学に転じたために,社会心理学会に行くことも少なくなり,山岸先生とはやや疎遠になってしまった.年賀状のやり取りも次第になくなり,近年はすっかりご無沙汰していた.

学会では,数理社会学会とアメリカ社会学会の数理社会学セクションとの合同会議を最初に日本で開いたとき(2005年),山岸先生にホストをお願いし,私はオーガナイザーとしてサポートした.山岸先生の手慣れた運営に大いに感心し勉強させてもらった.その後しばらく,日米会議や数理社会学会大会を引き受けることになったが,そのときの経験を活かすことができた.

私はその後,山岸先生の「信頼の解き放ち理論」に対してはかなり懐疑的な立場を取るようになったが,それでも,学会発表の際には聞いていただいてコメントをくださったり,明治学院時代の私の院生にも励ましをいただいたり,懐の広い先生であった.一方で,アメリカには論敵がいて,かなりいろいろあると伺っていたが,全体としてみれば,多少批判的な相手に対しても,面白いと思う論点があれば,素直に面白いと言ってくださるなど,いろんなものを取り込んで,信頼を中核とした理論を鍛えていくことに熱心に取り組まれていた.

ともあれ,97~98年の密度の濃い1年間には本当にお世話になった.それからちょうど10年後の社会心理学会の懇親会で,あれから10年経ちましたとお話しすると,もうそんなになるのかと,私がこの世界で腰を落ち着けて歩み始めたことを喜んでくださった.しかし,20年後というわけにはいかなかった.それを目前に先生は亡くなってしまった.あれから20年経ちましたとお話しすることができなくなったこと,このところご無沙汰してしまっていたことが残念でならない.70歳の死は,あまりにも若すぎる.先生のご冥福をお祈りします.

14 5月

『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』を読んで,はたと思ったこと

新井紀子さんの『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』(東洋経済新報社)が,評判である.しばらく前に買っていて,最近ざっと読んだ.

私自身は,AI研究者ではないが,この領域の知人も多い.また,AI研究者ではなくても,プログラミングなどはそれなりに経験してきているので,ある程度わかることもある.前半部分のAIができることとできないことについては,さもありなんと思いながら読んだ.

ふと思い出したのが80年代後半の学生時代に,何かの授業でやったPrologである.あれを触った感想として,こいつは,誰かが(とにかく自分じゃない)一生懸命に鍛え上げれば偉くもなるのかもしれないが,基本的には究極のバカではないかと思った覚えがある.

基本的に,現代のAIも同じようなものなのだなという,失望に似た感想を持ったのだった.

後半.現代の教育のあり方について独自の調査をふまえつつ論じている.ツイッターでは,この部分に対する社会科学者からの批判があるようだが,私自身は,粗っぽさはあるものの,粗さについては,気になる人が指摘したり,自分で何かやってみればよいと思うので,それほど気にはならなかった.

むしろ,現代の教育について非常に示唆的な部分があるように思われた.私は昨年4月に信州大学人文学部から近畿大学総合社会学部に移った.昨年度は,教育に携わりつつ,どのくらい学生の質に違いがあるのかを把握するように心がけた.たとえば,講読の授業では,前任校でやっていたように,事前に章の「まとめ」を提出するように求めてみた.すると,現任校では,まとめがまとめになっていない学生が続出することに気づいたのである.前任校ではこのレベルはなかなったなと思ったのである.そして,新井さんのこの本を読んで,合点がいったのだ.「そうだ,彼らは読めていない(理解できていない).」改めて,まとめを読んでみると,全体を適度に縮約したまとめになっておらず,パッチワークのように,部分的に縮約されているが,全く何も触れられていない部分が存在するのである.しかも,どうでもよいようなところは含まれているのに,重要な部分が抜け落ちていたりするのである.なるほど.新井さんの指摘をふまえて考えると,たぶんこういうことだろう.すなわち,どうでもよいようなところはわかりやすく,彼らもそれを適度に縮約できる.しかし,肝心の重要な部分では,それまでのさまざまなことがらを総合的・論理的にまとめて中心的なステートメントが形成されているが,そのロジックが難しくて理解できないのかもしれない.

先日,講読の授業のさいに,学生にそのことを指摘してみた.「一度読んで理解できなかったときに,諦めてしまっていないか」と.「難しいと思うけど,その部分をもう2,3回読んでみな」と.「一番肝心なところをわからないからといってスルーしとったら,賢くなられへんで」と.学生の表情を見ていると,痛いところを突かれたみたいな顔をしたように見えた.次回からは,少しでもパッチワークが改善されるのではないかと期待している.

ともあれ,これだけ示唆を与えてもらえれば,十分に読んだ価値はあったなと思える一冊であった.

13 5月

吉川徹『日本の分断:切り離される非大卒若者たち』を読んで

不思議な縁のある先輩研究者のお一人が,阪大の吉川徹先生である.先日も,最近著された『日本の分断:切り離される非大卒若者たち』(光文社新書)をご恵投いただいた.店頭に並ぶ前にいただき,4月下旬の共通の知人の結婚式の時には既に読んでしまっていたのだが,一緒に参列した娘の世話が忙しくて,お礼と感想を述べる時間も取れなかった.いわゆる専門書ではなく一般向けの本なので,書評ふうではなく,四方山話ふうに感想を書くことにしたい.

自分がコミットしている学会の懇親会に出ても,何十人もの参加者がいると,ちょっと挨拶したりちょっと立ち話をしたりするくらいがせいぜいで,なかなかじっくりとお話をすることはできないものである.

研究は,結果が全てということはなく,私は,発表で聞いた内容自体よりも,この人がどうしてそういう研究をしようと思ったのかとか,その研究を含めて,その人がどこに向かおうとしているのか,といったことにも関心を持つことが多い.しかし,そういった話は,なかなか限られた時間では聞くことができないものである.

『日本の分断』では,ふだんなかなかじっくりとお話しを聞くことができない吉川さんが,最近何を考えておられるのかが懇々と語られている.人柄もあちこちからにじみ出ている.全体を読んで,本書の内容はもちろんだが,吉川さんという方を,もっと知ることができたというのが感想である.

実は,1年半ほど前に,吉川さんと日中から一晩,二人で飲み明かしたことがある.その時も,こういうお話を聞くチャンスはあったのだと思うが,もっと私的で込み入った話となってしまい,本書で語られるようなお話はあまり聞かなかった(と思う…私が泥酔しすぎて記憶が定かでないという可能性はある).

ともあれ,本書は,吉川さんが,日本社会の何を憂いているのかを明らかにするために書かれているといってよい.社会階層論で第一線を走ってきた彼が,論文や学術書では語り得なかったことが,新書という媒体を用いたことによって,かなり率直に吐露されている.時折,あまりにナイーブな語りに,ちょっと格好つけすぎじゃないのかと思ったりするところもあるが,あまりうがった見方をする必要はないのかもしれないと,読み切って再認識したのだった.

ただ,どうしても「分断」と言わなければならないのか? 私にとっての「分断」のイメージは,グラノヴェターの「弱い紐帯」の話に出てくる,バラバラに存在する小集団のイメージである.また,スモールワールド・ネットワークの考え方からすれば,全く外部とのコンタクトを持たないのでなければ,非大卒の若者への配慮は,吉川さんの意に反して十分に認識されている可能性もあるようにも思われた.また,何かの折りに吉川さんに尋ねてみたいと思う.

 

17 6月

SPSSとStataの因子分析:結果を合致させるには

Stata使いですが,SPSSとはなかなか縁が切れないものです.
ソフトウェアが違うと,(デフォルトでの)計算の仕方が違っているものです.特に,因子分析の結果は,なかなか合わない.使用ソフトとバージョンを書いておくようにというような指示があったりしますが,それでも,どうしたら合うのかは,気になるものです.というわけで,絶対に合うという保証はありませんが(当然でしょう),とりあえず,経験的にこうやったら合ったという情報を上げておきましょう.

■SPSS(ver.24)とStata(ver.14.2)の因子分析(6/17/17アップデート)
主成分分析・バリマックス回転:Stataの回転時のオプションで”Apply the Kaiser normalization”を選択すれば,SPSSのデフォルト状態と同じ結果が得られる.コマンドでは,
rotate, kaiser
である.
主成分分析・プロマックス回転:Stataの回転時のオプションで”Apply the Kaiser normalization” を選択し,さらに,Promax power=4 とすると,SPSSのデフォルト状態と同じ結果が得られる.コマンドでは,
rotate, promax(4) oblique kaiser
である.
ただし,アウトプットのSPSSのパターン行列と,Stataのパターン行列は,因子の並び順が異なっている.SPSSの場合には,「説明された分散の合計」の「回転後の負荷量平方和」に現れた因子順に,パターン行列の因子が並んでいる.しかし,SPSSの「回転後の負荷量平方和」の成分は,大→小の順番に並んでいない.(「抽出後の負荷量平方和」の順に大→小へと並んでいる.)Stataの場合には,SPSSの「回転後の負荷量平方和」を大→小の順番に並べた上で,その順に従ってパターン行列の因子が並んでいる.しかし,Stata側では,SPSSの「回転後の負荷量平方和」に相当するものが表示されないので,回転前の因子との対応がどうなっているのかはわからない.
主因子法1(デフォルト状態):そもそも,デフォルト状態で計算させると,SPSSとStataでは,抽出される因子数などが違っている.
また,Stataのデフォルトは,principal factor (PF)であるが,これは,繰り返し共通性の推定をしないようなので,ipfとすべきである.なお,SPSSのデフォルトの繰り返し数は25であり,Stataで同様に設定しても,やはりSPSSとは抽出される因子数などが違っている.
そこで,
主因子法2(抽出因子数を合わせる):SPSSとStata ipf で抽出される因子数を揃えると,同じ結果が出るようになる.そのためには,SPSSの「因子の固定数:抽出する因子」の数と,Stataの”Maximum number of factors to be retained” の数を揃える.Stataの方は,最大数(maximum number)と記述されているが,実際には固定数である.最大数を設定すると固有値が1未満の場合でも,ちゃんと指定した最大数まで取ってくれる.
主因子法のバリマックス回転:Stataの回転時のオプションで”Apply the Kaiser normalization”を選択すれば,SPSSのデフォルト状態と同じ結果が得られる.コマンドでは,
rotate, kaiser
である.
主因子法のプロマックス回転:Stataの回転時のオプションで”Apply the Kaiser normalization” を選択し,さらに,Promax power=4 とすると,SPSSのデフォルト状態と同じ結果が得られる.コマンドでは,
rotate, promax(4) oblique kaiser
である.
ただし,アウトプットのSPSSのパターン行列と,Stataのパターン行列は,因子の並び順が異なっている.SPSSの場合には,「説明された分散の合計」の「回転後の負荷量平方和」に現れた因子順に,パターン行列の因子が並んでいる.しかし,SPSSの「回転後の負荷量平方和」の成分は,大→小の順番に並んでいない.(「抽出後の負荷量平方和」の順に大→小へと並んでいる.)Stataの場合には,SPSSの「回転後の負荷量平方和」を大→小の順番に並べた上で,その順に従ってパターン行列の因子が並んでいる.しかし,Stata側では,SPSSの「回転後の負荷量平方和」に相当するものが表示されないので,回転前の因子との対応がどうなっているのかはわからない.
最尤法1(デフォルト状態):そもそも,デフォルト状態で計算させると,SPSSとStataでは,抽出される因子数などが違っている.
最尤法2(抽出因子数を合わせる):SPSSとStataで抽出される因子数を揃えると,同じ結果が出るようになる.そのためには,SPSSの「因子の固定数:抽出する因子」の数と,Stataの”Maximum number of factors to be retained” の数を揃える.Stataの方は,最大数(maximum number)と記述されているが,実際には固定数である.最大数を設定すると固有値が1未満の場合でも,ちゃんと指定した最大数まで取ってくれる.
最尤法のバリマックス回転:Stataの回転時のオプションで”Apply the Kaiser normalization”を選択すれば,SPSSのデフォルト状態と同じ結果が得られる.コマンドでは,
rotate, kaiser
である.
最尤法のプロマックス回転:Stataの回転時のオプションで”Apply the Kaiser normalization” を選択し,さらに,Promax power=4 とすると,SPSSのデフォルト状態と同じ結果が得られる.コマンドでは,
rotate, promax(4) oblique kaiser
である.
ただし,アウトプットのSPSSのパターン行列と,Stataのパターン行列は,因子の並び順が異なっている.SPSSの場合には,「説明された分散の合計」の「回転後の負荷量平方和」に現れた因子順に,パターン行列の因子が並んでいる.しかし,SPSSの「回転後の負荷量平方和」の成分は,大→小の順番に並んでいない.(「抽出後の負荷量平方和」の順に大→小へと並んでいる.)Stataの場合には,SPSSの「回転後の負荷量平方和」を大→小の順番に並べた上で,その順に従ってパターン行列の因子が並んでいる.しかし,Stata側では,SPSSの「回転後の負荷量平方和」に相当するものが表示されないので,回転前の因子との対応がどうなっているのかはわからない.

18 2月

ビジョンを問いただされて

先日,自分が留学したのと全く同時に渡米して,LAの近郊Brentwoodでインプラント専門の歯科医をしている旧友に24年ぶりに再開した.彼は,当時から野心家で,話をしていると,今もなお新たな目標を持っていることがわかった.相変わらずの野心家である.

その彼が,「竜平にとっての(教育の)ビジョンは何?」とぼくに問うた.一瞬ためらったが,ナイーブではあるが,「世界のどこでも生きていける人を作ることかな」と答えた.ややこっぱずかしい感じもするが,たぶんそうだろうと思う.そう答えたことが,妙に心の片隅に残っているので,こうやって書いておくのがよいのかもしれないと思ったりした.

おかしくなっている日本を直そうとするのでもよい,日本を見限って,あるいは野心があって海外に飛び出すのもよい.いずれにしても,日本でしか生きていけないとか,海外で生きていくなんてそもそも考えたこともないとか,外国から日本がどう見えているかに関心がないとか,そういう時代ではなくなってきているとは思う.少なくとも,海外を視野に入れた方が選択肢が広がる.自分のような者が,日本から出たことのない大学教員とは違った役割を果たしていくのがよいかなと思う.

13 1月

Orange Network誌に「大統領選挙と選挙制度の不公平、そして民主主義のあり方」を寄稿しました.

2017-01-11 14.34.40ほぼ1年ぶりの投稿です.(ブログとして,ほとんど機能していないですね.)

現在,半期ですが,渡米しており,母校のUCIに滞在しています.そのようなわけで,いろいろ経緯はあるのですが,地元オレンジ・カウンティの日系誌である”Orange Network”誌に「大統領選挙と選挙制度の不公平、そして民主主義のあり方」という記事を寄稿しました.

著作権がどうなっているのかとかよくわかりませんので,場合によっては記事を削除するかもしれませんが,フリーペーパーへのギャラなしの寄稿ですし,オレンジ・カウンティの人たちだけしか読んでもらえないというのももったいないように思いますので,ここにアップしておきたいと思います.

原稿の内容は,選挙結果や制度についての説明をという依頼に基づいて書いた部分が多くを占めますが,一番言いたかったことは,最後のパラグラフですかね,以下,記事内容です.

—ここから—

2017-01-11 14.34.05「大統領選挙と選挙制度の不公平、そして民主主義のあり方」, Orange Network, January 2017, p.5

2016年11月8日、大方のマスメディアの事前予想を覆してドナルド・トランプ氏が大統領選挙に勝利した。これをめぐって、投票の公平性に関わる議論が起こっている。全米の総得票数は、クリントン氏の得票数がトランプ氏のものより多かったからである。しかし、合衆国の投票制度は単純な総得票数を争うものではないために、このような逆転現象が生じてしまったのである。本当にこのような制度は公平(フェア)なのだろうか? また、民主主義という制度にとって、現行の投票制度は適切と言えるのだろうか?
投票制度に関わる問題の中でも最も知られたものが、各州での得票が多かった候補者が、その州に割り当てられた選挙人を総取りする方法(エレクトラル・ボート)である。この方法の問題点としては、勝者に1票足りなくても、「少数派」となった人々の意志が選挙結果に反映されないことである。獲得票数の比率によってその州の選挙人獲得数を按分してはどうかという案もあり、メイン州とネブラスカ州ではそれに類する方法が採用されている。このような総取りの方法ため、多くの州では一貫して共和党か民主党のどちらかが勝利することになる。そして、「スウィング・ステイト」と呼ばれる共和党と民主党の勢力が拮抗している州が、そのときどきにどちらに転ぶかによって、全米の選挙結果が、事実上決まってしまうということが起こるのである。逆に、常に結果が一貫している州では、投票に行くモチベーションが下がってしまうという問題も指摘されている。
また、各州には選挙人(エレクター)の数が割り当てられている。最も人口の多いカリフォルニア州は、2016年選挙においては、他州に比べて多い55人が割り当てられていた。しかしながら、カリフォルニア州の選挙人数は、2004年以降55人のままである。その間カリフォルニア州の人口は増え続けているし、そうであれば選挙人の数も増えてよいのではないか? 実際、人口と選挙人の比を取ると、カリフォルニア州などでは選挙人数は過小になっており、ワイオミング州などでは過大になっている。ワシントン・ポスト紙(11月17日付け)によると、2016年において、ワイオミング州の1票は、カリフォルニア州の1票の3.6倍の重みがあるという。
さて、このような選挙制度は不公平なのだろうか? これは選挙制度のみならず、民主主義のあり方に関わる問題である。何を基本的に守らなければならない善と見なすかが違うと、現状に関わる認識も、何を改善すべきと考えるかも違ってくる。
もう少し踏み込んで説明しよう。「民主主義=多数決の制度」ではない。少なくとも完全にイコールではない。民主主義は、多数決を伴う側面を持っていることも確かだが、どんなに少数の意見であっても、それに耳を傾け、社会の構成員全員がよりよく生きられる社会を構想しようとする制度でもある。合衆国では、州の人口が少なくても、最低3人の選挙人が割り当てられている。これは、人口が少ない州を優遇することになるという側面もあるが、各州は合衆国の一員であり、人口の少ない州の少数の意見も大切にするという意志の表れでもある。各州の選挙人の数は繰り返し見直されているが、選挙人の数が単純な人口比で決まらないのは、そのような理由があるのである。
このところ、日本における安倍政権の誕生と「集団的自衛権」を含む「安保法案」の成立、イギリスのEUからの離脱(ブレグジット)、そしてトランプ政権の誕生と、世界は一時のグローバル化の流れから一転し、一国ないし強固な同盟国間の保護主義への道を歩み始めているように思える。民主主義とは一国内において成立するものというのが基本的な了解であり、各国政府は各国民のよき生を守ることに責任を持つ。しかし、戦後からの保護主義が続いていた1970年代までの世界とは違い、現在の世界は、人々もモノもはるかに緊密に結びついている。大国の急激な対外政策の変更は、その国だけでなく、世界の人々にもモノにも大きな影響を与える。だから、大国の政権が一国内の人々に対して責任を持つために、同時に他国に対して理解し配慮を示すことも求められるようになっているのである。過激と言われた選挙戦におけるトランプ氏の発言がどこまで軟化するのか。すなわち、国内の支持層以外の人々に対して、また投票権のなかった移民などに対して、どれだけ配慮を示せるか、そして、他国や他地域の人々やモノに対してひどい打撃を与えることなく柔軟な新機軸を打ち出せるかどうか、今後のトランプ氏の政権運営から目が離せない。

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