14 5月

『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』を読んで,はたと思ったこと

新井紀子さんの『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』(東洋経済新報社)が,評判である.しばらく前に買っていて,最近ざっと読んだ.

私自身は,AI研究者ではないが,この領域の知人も多い.また,AI研究者ではなくても,プログラミングなどはそれなりに経験してきているので,ある程度わかることもある.前半部分のAIができることとできないことについては,さもありなんと思いながら読んだ.

ふと思い出したのが80年代後半の学生時代に,何かの授業でやったPrologである.あれを触った感想として,こいつは,誰かが(とにかく自分じゃない)一生懸命に鍛え上げれば偉くもなるのかもしれないが,基本的には究極のバカではないかと思った覚えがある.

基本的に,現代のAIも同じようなものなのだなという,失望に似た感想を持ったのだった.

後半.現代の教育のあり方について独自の調査をふまえつつ論じている.ツイッターでは,この部分に対する社会科学者からの批判があるようだが,私自身は,粗っぽさはあるものの,粗さについては,気になる人が指摘したり,自分で何かやってみればよいと思うので,それほど気にはならなかった.

むしろ,現代の教育について非常に示唆的な部分があるように思われた.私は昨年4月に信州大学人文学部から近畿大学総合社会学部に移った.昨年度は,教育に携わりつつ,どのくらい学生の質に違いがあるのかを把握するように心がけた.たとえば,講読の授業では,前任校でやっていたように,事前に章の「まとめ」を提出するように求めてみた.すると,現任校では,まとめがまとめになっていない学生が続出することに気づいたのである.前任校ではこのレベルはなかなったなと思ったのである.そして,新井さんのこの本を読んで,合点がいったのだ.「そうだ,彼らは読めていない(理解できていない).」改めて,まとめを読んでみると,全体を適度に縮約したまとめになっておらず,パッチワークのように,部分的に縮約されているが,全く何も触れられていない部分が存在するのである.しかも,どうでもよいようなところは含まれているのに,重要な部分が抜け落ちていたりするのである.なるほど.新井さんの指摘をふまえて考えると,たぶんこういうことだろう.すなわち,どうでもよいようなところはわかりやすく,彼らもそれを適度に縮約できる.しかし,肝心の重要な部分では,それまでのさまざまなことがらを総合的・論理的にまとめて中心的なステートメントが形成されているが,そのロジックが難しくて理解できないのかもしれない.

先日,講読の授業のさいに,学生にそのことを指摘してみた.「一度読んで理解できなかったときに,諦めてしまっていないか」と.「難しいと思うけど,その部分をもう2,3回読んでみな」と.「一番肝心なところをわからないからといってスルーしとったら,賢くなられへんで」と.学生の表情を見ていると,痛いところを突かれたみたいな顔をしたように見えた.次回からは,少しでもパッチワークが改善されるのではないかと期待している.

ともあれ,これだけ示唆を与えてもらえれば,十分に読んだ価値はあったなと思える一冊であった.

13 5月

吉川徹『日本の分断:切り離される非大卒若者たち』を読んで

不思議な縁のある先輩研究者のお一人が,阪大の吉川徹先生である.先日も,最近著された『日本の分断:切り離される非大卒若者たち』(光文社新書)をご恵投いただいた.店頭に並ぶ前にいただき,4月下旬の共通の知人の結婚式の時には既に読んでしまっていたのだが,一緒に参列した娘の世話が忙しくて,お礼と感想を述べる時間も取れなかった.いわゆる専門書ではなく一般向けの本なので,書評ふうではなく,四方山話ふうに感想を書くことにしたい.

自分がコミットしている学会の懇親会に出ても,何十人もの参加者がいると,ちょっと挨拶したりちょっと立ち話をしたりするくらいがせいぜいで,なかなかじっくりとお話をすることはできないものである.

研究は,結果が全てということはなく,私は,発表で聞いた内容自体よりも,この人がどうしてそういう研究をしようと思ったのかとか,その研究を含めて,その人がどこに向かおうとしているのか,といったことにも関心を持つことが多い.しかし,そういった話は,なかなか限られた時間では聞くことができないものである.

『日本の分断』では,ふだんなかなかじっくりとお話しを聞くことができない吉川さんが,最近何を考えておられるのかが懇々と語られている.人柄もあちこちからにじみ出ている.全体を読んで,本書の内容はもちろんだが,吉川さんという方を,もっと知ることができたというのが感想である.

実は,1年半ほど前に,吉川さんと日中から一晩,二人で飲み明かしたことがある.その時も,こういうお話を聞くチャンスはあったのだと思うが,もっと私的で込み入った話となってしまい,本書で語られるようなお話はあまり聞かなかった(と思う…私が泥酔しすぎて記憶が定かでないという可能性はある).

ともあれ,本書は,吉川さんが,日本社会の何を憂いているのかを明らかにするために書かれているといってよい.社会階層論で第一線を走ってきた彼が,論文や学術書では語り得なかったことが,新書という媒体を用いたことによって,かなり率直に吐露されている.時折,あまりにナイーブな語りに,ちょっと格好つけすぎじゃないのかと思ったりするところもあるが,あまりうがった見方をする必要はないのかもしれないと,読み切って再認識したのだった.

ただ,どうしても「分断」と言わなければならないのか? 私にとっての「分断」のイメージは,グラノヴェターの「弱い紐帯」の話に出てくる,バラバラに存在する小集団のイメージである.また,スモールワールド・ネットワークの考え方からすれば,全く外部とのコンタクトを持たないのでなければ,非大卒の若者への配慮は,吉川さんの意に反して十分に認識されている可能性もあるようにも思われた.また,何かの折りに吉川さんに尋ねてみたいと思う.

 

17 6月

SPSSとStataの因子分析:結果を合致させるには

Stata使いですが,SPSSとはなかなか縁が切れないものです.
ソフトウェアが違うと,(デフォルトでの)計算の仕方が違っているものです.特に,因子分析の結果は,なかなか合わない.使用ソフトとバージョンを書いておくようにというような指示があったりしますが,それでも,どうしたら合うのかは,気になるものです.というわけで,絶対に合うという保証はありませんが(当然でしょう),とりあえず,経験的にこうやったら合ったという情報を上げておきましょう.

■SPSS(ver.24)とStata(ver.14.2)の因子分析(6/17/17アップデート)
主成分分析・バリマックス回転:Stataの回転時のオプションで”Apply the Kaiser normalization”を選択すれば,SPSSのデフォルト状態と同じ結果が得られる.コマンドでは,
rotate, kaiser
である.
主成分分析・プロマックス回転:Stataの回転時のオプションで”Apply the Kaiser normalization” を選択し,さらに,Promax power=4 とすると,SPSSのデフォルト状態と同じ結果が得られる.コマンドでは,
rotate, promax(4) oblique kaiser
である.
ただし,アウトプットのSPSSのパターン行列と,Stataのパターン行列は,因子の並び順が異なっている.SPSSの場合には,「説明された分散の合計」の「回転後の負荷量平方和」に現れた因子順に,パターン行列の因子が並んでいる.しかし,SPSSの「回転後の負荷量平方和」の成分は,大→小の順番に並んでいない.(「抽出後の負荷量平方和」の順に大→小へと並んでいる.)Stataの場合には,SPSSの「回転後の負荷量平方和」を大→小の順番に並べた上で,その順に従ってパターン行列の因子が並んでいる.しかし,Stata側では,SPSSの「回転後の負荷量平方和」に相当するものが表示されないので,回転前の因子との対応がどうなっているのかはわからない.
主因子法1(デフォルト状態):そもそも,デフォルト状態で計算させると,SPSSとStataでは,抽出される因子数などが違っている.
また,Stataのデフォルトは,principal factor (PF)であるが,これは,繰り返し共通性の推定をしないようなので,ipfとすべきである.なお,SPSSのデフォルトの繰り返し数は25であり,Stataで同様に設定しても,やはりSPSSとは抽出される因子数などが違っている.
そこで,
主因子法2(抽出因子数を合わせる):SPSSとStata ipf で抽出される因子数を揃えると,同じ結果が出るようになる.そのためには,SPSSの「因子の固定数:抽出する因子」の数と,Stataの”Maximum number of factors to be retained” の数を揃える.Stataの方は,最大数(maximum number)と記述されているが,実際には固定数である.最大数を設定すると固有値が1未満の場合でも,ちゃんと指定した最大数まで取ってくれる.
主因子法のバリマックス回転:Stataの回転時のオプションで”Apply the Kaiser normalization”を選択すれば,SPSSのデフォルト状態と同じ結果が得られる.コマンドでは,
rotate, kaiser
である.
主因子法のプロマックス回転:Stataの回転時のオプションで”Apply the Kaiser normalization” を選択し,さらに,Promax power=4 とすると,SPSSのデフォルト状態と同じ結果が得られる.コマンドでは,
rotate, promax(4) oblique kaiser
である.
ただし,アウトプットのSPSSのパターン行列と,Stataのパターン行列は,因子の並び順が異なっている.SPSSの場合には,「説明された分散の合計」の「回転後の負荷量平方和」に現れた因子順に,パターン行列の因子が並んでいる.しかし,SPSSの「回転後の負荷量平方和」の成分は,大→小の順番に並んでいない.(「抽出後の負荷量平方和」の順に大→小へと並んでいる.)Stataの場合には,SPSSの「回転後の負荷量平方和」を大→小の順番に並べた上で,その順に従ってパターン行列の因子が並んでいる.しかし,Stata側では,SPSSの「回転後の負荷量平方和」に相当するものが表示されないので,回転前の因子との対応がどうなっているのかはわからない.
最尤法1(デフォルト状態):そもそも,デフォルト状態で計算させると,SPSSとStataでは,抽出される因子数などが違っている.
最尤法2(抽出因子数を合わせる):SPSSとStataで抽出される因子数を揃えると,同じ結果が出るようになる.そのためには,SPSSの「因子の固定数:抽出する因子」の数と,Stataの”Maximum number of factors to be retained” の数を揃える.Stataの方は,最大数(maximum number)と記述されているが,実際には固定数である.最大数を設定すると固有値が1未満の場合でも,ちゃんと指定した最大数まで取ってくれる.
最尤法のバリマックス回転:Stataの回転時のオプションで”Apply the Kaiser normalization”を選択すれば,SPSSのデフォルト状態と同じ結果が得られる.コマンドでは,
rotate, kaiser
である.
最尤法のプロマックス回転:Stataの回転時のオプションで”Apply the Kaiser normalization” を選択し,さらに,Promax power=4 とすると,SPSSのデフォルト状態と同じ結果が得られる.コマンドでは,
rotate, promax(4) oblique kaiser
である.
ただし,アウトプットのSPSSのパターン行列と,Stataのパターン行列は,因子の並び順が異なっている.SPSSの場合には,「説明された分散の合計」の「回転後の負荷量平方和」に現れた因子順に,パターン行列の因子が並んでいる.しかし,SPSSの「回転後の負荷量平方和」の成分は,大→小の順番に並んでいない.(「抽出後の負荷量平方和」の順に大→小へと並んでいる.)Stataの場合には,SPSSの「回転後の負荷量平方和」を大→小の順番に並べた上で,その順に従ってパターン行列の因子が並んでいる.しかし,Stata側では,SPSSの「回転後の負荷量平方和」に相当するものが表示されないので,回転前の因子との対応がどうなっているのかはわからない.

18 2月

ビジョンを問いただされて

先日,自分が留学したのと全く同時に渡米して,LAの近郊Brentwoodでインプラント専門の歯科医をしている旧友に24年ぶりに再開した.彼は,当時から野心家で,話をしていると,今もなお新たな目標を持っていることがわかった.相変わらずの野心家である.

その彼が,「竜平にとっての(教育の)ビジョンは何?」とぼくに問うた.一瞬ためらったが,ナイーブではあるが,「世界のどこでも生きていける人を作ることかな」と答えた.ややこっぱずかしい感じもするが,たぶんそうだろうと思う.そう答えたことが,妙に心の片隅に残っているので,こうやって書いておくのがよいのかもしれないと思ったりした.

おかしくなっている日本を直そうとするのでもよい,日本を見限って,あるいは野心があって海外に飛び出すのもよい.いずれにしても,日本でしか生きていけないとか,海外で生きていくなんてそもそも考えたこともないとか,外国から日本がどう見えているかに関心がないとか,そういう時代ではなくなってきているとは思う.少なくとも,海外を視野に入れた方が選択肢が広がる.自分のような者が,日本から出たことのない大学教員とは違った役割を果たしていくのがよいかなと思う.

13 1月

Orange Network誌に「大統領選挙と選挙制度の不公平、そして民主主義のあり方」を寄稿しました.

2017-01-11 14.34.40ほぼ1年ぶりの投稿です.(ブログとして,ほとんど機能していないですね.)

現在,半期ですが,渡米しており,母校のUCIに滞在しています.そのようなわけで,いろいろ経緯はあるのですが,地元オレンジ・カウンティの日系誌である”Orange Network”誌に「大統領選挙と選挙制度の不公平、そして民主主義のあり方」という記事を寄稿しました.

著作権がどうなっているのかとかよくわかりませんので,場合によっては記事を削除するかもしれませんが,フリーペーパーへのギャラなしの寄稿ですし,オレンジ・カウンティの人たちだけしか読んでもらえないというのももったいないように思いますので,ここにアップしておきたいと思います.

原稿の内容は,選挙結果や制度についての説明をという依頼に基づいて書いた部分が多くを占めますが,一番言いたかったことは,最後のパラグラフですかね,以下,記事内容です.

—ここから—

2017-01-11 14.34.05「大統領選挙と選挙制度の不公平、そして民主主義のあり方」, Orange Network, January 2017, p.5

2016年11月8日、大方のマスメディアの事前予想を覆してドナルド・トランプ氏が大統領選挙に勝利した。これをめぐって、投票の公平性に関わる議論が起こっている。全米の総得票数は、クリントン氏の得票数がトランプ氏のものより多かったからである。しかし、合衆国の投票制度は単純な総得票数を争うものではないために、このような逆転現象が生じてしまったのである。本当にこのような制度は公平(フェア)なのだろうか? また、民主主義という制度にとって、現行の投票制度は適切と言えるのだろうか?
投票制度に関わる問題の中でも最も知られたものが、各州での得票が多かった候補者が、その州に割り当てられた選挙人を総取りする方法(エレクトラル・ボート)である。この方法の問題点としては、勝者に1票足りなくても、「少数派」となった人々の意志が選挙結果に反映されないことである。獲得票数の比率によってその州の選挙人獲得数を按分してはどうかという案もあり、メイン州とネブラスカ州ではそれに類する方法が採用されている。このような総取りの方法ため、多くの州では一貫して共和党か民主党のどちらかが勝利することになる。そして、「スウィング・ステイト」と呼ばれる共和党と民主党の勢力が拮抗している州が、そのときどきにどちらに転ぶかによって、全米の選挙結果が、事実上決まってしまうということが起こるのである。逆に、常に結果が一貫している州では、投票に行くモチベーションが下がってしまうという問題も指摘されている。
また、各州には選挙人(エレクター)の数が割り当てられている。最も人口の多いカリフォルニア州は、2016年選挙においては、他州に比べて多い55人が割り当てられていた。しかしながら、カリフォルニア州の選挙人数は、2004年以降55人のままである。その間カリフォルニア州の人口は増え続けているし、そうであれば選挙人の数も増えてよいのではないか? 実際、人口と選挙人の比を取ると、カリフォルニア州などでは選挙人数は過小になっており、ワイオミング州などでは過大になっている。ワシントン・ポスト紙(11月17日付け)によると、2016年において、ワイオミング州の1票は、カリフォルニア州の1票の3.6倍の重みがあるという。
さて、このような選挙制度は不公平なのだろうか? これは選挙制度のみならず、民主主義のあり方に関わる問題である。何を基本的に守らなければならない善と見なすかが違うと、現状に関わる認識も、何を改善すべきと考えるかも違ってくる。
もう少し踏み込んで説明しよう。「民主主義=多数決の制度」ではない。少なくとも完全にイコールではない。民主主義は、多数決を伴う側面を持っていることも確かだが、どんなに少数の意見であっても、それに耳を傾け、社会の構成員全員がよりよく生きられる社会を構想しようとする制度でもある。合衆国では、州の人口が少なくても、最低3人の選挙人が割り当てられている。これは、人口が少ない州を優遇することになるという側面もあるが、各州は合衆国の一員であり、人口の少ない州の少数の意見も大切にするという意志の表れでもある。各州の選挙人の数は繰り返し見直されているが、選挙人の数が単純な人口比で決まらないのは、そのような理由があるのである。
このところ、日本における安倍政権の誕生と「集団的自衛権」を含む「安保法案」の成立、イギリスのEUからの離脱(ブレグジット)、そしてトランプ政権の誕生と、世界は一時のグローバル化の流れから一転し、一国ないし強固な同盟国間の保護主義への道を歩み始めているように思える。民主主義とは一国内において成立するものというのが基本的な了解であり、各国政府は各国民のよき生を守ることに責任を持つ。しかし、戦後からの保護主義が続いていた1970年代までの世界とは違い、現在の世界は、人々もモノもはるかに緊密に結びついている。大国の急激な対外政策の変更は、その国だけでなく、世界の人々にもモノにも大きな影響を与える。だから、大国の政権が一国内の人々に対して責任を持つために、同時に他国に対して理解し配慮を示すことも求められるようになっているのである。過激と言われた選挙戦におけるトランプ氏の発言がどこまで軟化するのか。すなわち、国内の支持層以外の人々に対して、また投票権のなかった移民などに対して、どれだけ配慮を示せるか、そして、他国や他地域の人々やモノに対してひどい打撃を与えることなく柔軟な新機軸を打ち出せるかどうか、今後のトランプ氏の政権運営から目が離せない。

—ここまで—

10 2月

シノドスに「誰が『集団的自衛権』を容認したのか?――2014年松本市調査に見る支持者像」が掲載されました

先日2月8日,シノドスに「誰が『集団的自衛権』を容認したのか?――2014年松本市調査に見る支持者像」が掲載されました.

これまで,排外主義と集団的自衛権の容認を結びつける言説が多かったように思います.調査の結果から,排外主義からの効果も認められるが,それ以上に愛国主義からの影響が強いことを示しました.

今年度末には,学部紀要にて,もっと詳細な分析と考察を掲載する予定です.

また,2015年に9月には,長野県20市町村における調査も行っており,そこでも集団的自衛権に関わる質問をしていますので,その結果についても追って何らかの形で発表する予定です.

11 6月

「村山研一先生の三回忌を偲ぶ会」が行われました

去る6月7日(日),信州大学人文学部の人文ホールで,「村山研一先生の三回忌を偲ぶ会」が開催されました.当日は,村山先生のもとで社会学研究室を運営してきた歴代の助教授・准教授4名,村山先生の後任の現同僚と,十数年前からの学生・院生のOB/OG,村山先生から2ヶ月だけ指導を受けた現在の4年生のスタッフなど,30名弱の参加がありました.

歴代の助教授・准教授が,昔の写真などをプロジェクターで見せながら,村山先生や社会学研究室の懐かしい思い出を語り,また,OB/OGたちもそれぞれの思い出を語りました.定年を一年後に控えて急逝された村山先生のご人徳を,それぞれが感じているのだなと胸が熱くなりました.

本来であれば,村山先生の定年を記念するパーティを開き,そのときにこうやって思い出を語り,また,村山先生の30有余年の信大でのお話を伺いたかったです.ともあれ,2年前は,フォーマルな「お別れ会」という形で,ほとんど思い出話をすることもできなかったので,このような機会が持ててよかったです.この企画を最初に提案してくれた,前任のWさんにも感謝します.

11 6月

九州大学地球社会統合科学セミナー「寛容社会の姿を求めて」で講演してきました

去る6月5日(金),九州大学の三隅一人先生からお声をかけていただき,地球社会統合科学セミナー「寛容社会の姿を求めて」で3人の講演者の1人として講演させていただきました.

プログラムは,以下のとおりでした.

辻竜平@信州大学人文学部[社会学]
「寛容とその測定、および、寛容と定住外国人に対する意識との関連性」
関口正司@九州大学大学院法学研究院[政治哲学]
「政治哲学の観点から見た寛容論の課題」
高野和良@九州大学大学院人間環境学研究院[社会学]
「地域福祉活動を支えるのは人々の寛容性なのか?〜山口県内の高齢者
見守り活動をもとに〜」

3人の報告の後,大学院生お2人からコメントしてもらい,それにリプライする,という構成で,大学院教育の一環という意味もあるようでした.

ここ10年ほど,私の関心は,信頼から寛容へ移ってきています.しかし,信頼もそうですが,寛容も負けず劣らずさまざまな学問領域で細々と(小さな波はあるものの,少なくともここ20年の信頼ほどには大きな関心を集めることなく)続けられてきたこともあって,定義や分類なども錯綜している状態にあり,ようやくここに来て,何とか整理が付けられそうな気がしてきています.

そのようなわけで,私の講演では,まずは,(信頼研究も含めた)寛容研究の枠組み整理から始めて,この講演の話のスコープを明らかにしてから,特にウォルツァー流の寛容理論に基づいた尺度構成,そしてその尺度と定住外国人に対するいくつかの意識との関連性について,昨年,卒論生とともに松本市で行った調査の分析結果を報告しました.

関口先生は,J.S.ミルの政治哲学の中にある寛容論の課題として,自由や寛容の擁護論が,反自由主義的・非寛容的議論に転ずる逆説的可能性や,無関心の問題について論じられました.(暫定的?)結論としては,知的ゲームや抽象論としてではなく,具体的な場面を念頭に思慮的に考えていくべき課題であるとの考えを示されました.

高野先生は,地域福祉活動と「寛容」について,事例を中心としてお話になりました.地域において孤立死といった問題が生じたときに,それを「地域の恥」と捉えて隠蔽することがあるが,それは問題を認めずに排除するという意味で寛容度が低い.一方,「できれば何とかしたい」と考えて「見守り活動」などの協働的活動がなされることもあるが,これは問題を認めて包摂するという意味で寛容度が高い,と考えられるでしょう.しかし,それは,生活への干渉につながりかねず,対象者と担い手の関係調整が必要,といった課題があげられ,対応の手がかりについて議論されました.

私のものを含めて3つの講演がありましたが,「寛容」をめぐる議論は,やはりバラエティに富んでいるなと,改めて感じました.他にももっと切り口があるのだろうなという予感もあります.まだまだ寛容をめぐる概念整理といった作業を続けていかないといけないし,そういった整理が適切であるかどうか,実証的に検討していく必要があるなと感じました.

大学院生の方々からコメントをもらい,リプライし,その後もその院生の方々や三隅先生,高野先生を交えて懇親会の場でいろいろと議論しました.その中でふと自分の今やっていることに対する気づきがありました.ウォルツァーはコミュニタリアンなので,コミュニティなり社会なりに何某かの守るべき価値や文化があると考えています.だからこそ,自集団と他集団といった対立があるという構図を,意図してか意図せずしてかは別として,結果的に描くことになってしまうことに改めて気づきました.また,リベラリズムと違ってコミュニタリアニズムは,自由を際限なく認めないので,そのことが,コミュニタリアン的寛容性尺度を構成する肝であり,それが,もう少し尺度をブラッシュアップするための手がかりになりそうだなと感じました.

難しい話はさておき,金曜日は,松本空港から福岡空港までの飛行機に乗るつもりでした.松本空港は駐車料金が無料なので,少し早めに出て大学で資料を印刷し,その足で空港に向かう予定でした.ところが,うちを出たら,エンジンがかからない! 一方でJAFを呼び,また一方で同僚に印刷をお願いし,30分後に大学で同僚から印刷物をピックアップし,車中から空港のカウンターに電話し(ハンズフリー機能付きですので,電話機は手に持っていません),ギリギリになるけど行くからねと念押しし,何とか出発時刻10分前に到着.1日3往復しか便のないガラガラの空港なので,手荷物検査などをダーッと通って何とか遅延させることなく搭乗しました.何でこんなマンガみたいなことが起こるのかと. …翌日帰ってくると,やはりエンジンがかかりませんでした.再びJAFを呼んで,そのままディーラーに直行.バッテリー交換となりました.別にライトを付けっぱなしたとかいうことではなかったのですが,お亡くなりになるときには,ある日忽然とお亡くなりになるものだと知りました.エンジン様に寛容になるには,余裕を持って出かけることだなと,全くつまらないことを感じました.

ともあれ,三隅先生をはじめ,九大の皆様,お世話になりました.

13 5月

最低限のマナーを守ったレビューを

3日ほど前だろうか,アマゾンに長らく掲載されていた 辻・佐藤編著『ソーシャル・キャピタルと格差社会』への糞レビューが削除されていることに気がついた.本当によかった.
どういういきさつでそうなったのかは知らない.レビューアーが削除したのかもしれないし,何らかの手段が講じられたのかもしれない.
そのレビューの内容は,あまりにもひどいもので,本書の内容とは関わりのない,ソーシャル・キャピタル論全般に関わる恨み辛みが書かれているだけだった.おそらく中身は読んでいないのではないか.…実は,私は,何回かアマゾンとやりとりをして,あまりにひどい内容なので削除してほしいと依頼したが,そのときには取りあってもらえなかった.アマゾンとしては,個人に対する誹謗中傷のようなものでないかぎり,削除しないとのことだった.本書と無関係なレビューであったとしても,個人的な誹謗中傷ではないからとのことだった.ともあれ,あのような忌まわしいものが削除されてよかった.
私自身も,アマゾンで本を買うときにレビューを参考にすることはある.特に自分の専門外の本を買うときには,参考にすることが多い.星が何個付いているかというのは,レビューの中身を読まなくても,最初に目に付くものであることは確かである.だから,SC論に関心があって検索をしたが,星の数だけ見て,「買わんとこ」と思って買ってもらえなかったことも多かったのではないかと思う.潜在的読者を,あれで失ってしまったのではないかと思うと,とても残念である.
レビューを書いてもらうことは,よいことだと思う.ただし,最低限のマナーというものがあるだろう.自分の主張をするなと言うつもりは全くないが,本文の内容をちゃんと読んでから,本文の内容と絡めつつ,的確な主張してほしいと思う.単に,自分の主張や思考と相容れないのでダメな本だ,とだけ述べるのでは,本を評価したことにならない.そういうのは,著者に失礼だし,潜在的読者にとっても害でしかない.レビューに関わるリテラシーというものがあるかどうかは知らないが,常識的に,初めて出会った人に,いきなり「お前,馬鹿」とか言わないものだということが分かっていれば,最低限のマナーくらい自然に守れるものだと思う.