17 6月

SPSSとStataの因子分析:結果を合致させるには

Stata使いですが,SPSSとはなかなか縁が切れないものです.
ソフトウェアが違うと,(デフォルトでの)計算の仕方が違っているものです.特に,因子分析の結果は,なかなか合わない.使用ソフトとバージョンを書いておくようにというような指示があったりしますが,それでも,どうしたら合うのかは,気になるものです.というわけで,絶対に合うという保証はありませんが(当然でしょう),とりあえず,経験的にこうやったら合ったという情報を上げておきましょう.

■SPSS(ver.24)とStata(ver.14.2)の因子分析(6/17/17アップデート)
主成分分析・バリマックス回転:Stataの回転時のオプションで”Apply the Kaiser normalization”を選択すれば,SPSSのデフォルト状態と同じ結果が得られる.コマンドでは,
rotate, kaiser
である.
主成分分析・プロマックス回転:Stataの回転時のオプションで”Apply the Kaiser normalization” を選択し,さらに,Promax power=4 とすると,SPSSのデフォルト状態と同じ結果が得られる.コマンドでは,
rotate, promax(4) oblique kaiser
である.
ただし,アウトプットのSPSSのパターン行列と,Stataのパターン行列は,因子の並び順が異なっている.SPSSの場合には,「説明された分散の合計」の「回転後の負荷量平方和」に現れた因子順に,パターン行列の因子が並んでいる.しかし,SPSSの「回転後の負荷量平方和」の成分は,大→小の順番に並んでいない.(「抽出後の負荷量平方和」の順に大→小へと並んでいる.)Stataの場合には,SPSSの「回転後の負荷量平方和」を大→小の順番に並べた上で,その順に従ってパターン行列の因子が並んでいる.しかし,Stata側では,SPSSの「回転後の負荷量平方和」に相当するものが表示されないので,回転前の因子との対応がどうなっているのかはわからない.
主因子法1(デフォルト状態):そもそも,デフォルト状態で計算させると,SPSSとStataでは,抽出される因子数などが違っている.
また,Stataのデフォルトは,principal factor (PF)であるが,これは,繰り返し共通性の推定をしないようなので,ipfとすべきである.なお,SPSSのデフォルトの繰り返し数は25であり,Stataで同様に設定しても,やはりSPSSとは抽出される因子数などが違っている.
そこで,
主因子法2(抽出因子数を合わせる):SPSSとStata ipf で抽出される因子数を揃えると,同じ結果が出るようになる.そのためには,SPSSの「因子の固定数:抽出する因子」の数と,Stataの”Maximum number of factors to be retained” の数を揃える.Stataの方は,最大数(maximum number)と記述されているが,実際には固定数である.最大数を設定すると固有値が1未満の場合でも,ちゃんと指定した最大数まで取ってくれる.
主因子法のバリマックス回転:Stataの回転時のオプションで”Apply the Kaiser normalization”を選択すれば,SPSSのデフォルト状態と同じ結果が得られる.コマンドでは,
rotate, kaiser
である.
主因子法のプロマックス回転:Stataの回転時のオプションで”Apply the Kaiser normalization” を選択し,さらに,Promax power=4 とすると,SPSSのデフォルト状態と同じ結果が得られる.コマンドでは,
rotate, promax(4) oblique kaiser
である.
ただし,アウトプットのSPSSのパターン行列と,Stataのパターン行列は,因子の並び順が異なっている.SPSSの場合には,「説明された分散の合計」の「回転後の負荷量平方和」に現れた因子順に,パターン行列の因子が並んでいる.しかし,SPSSの「回転後の負荷量平方和」の成分は,大→小の順番に並んでいない.(「抽出後の負荷量平方和」の順に大→小へと並んでいる.)Stataの場合には,SPSSの「回転後の負荷量平方和」を大→小の順番に並べた上で,その順に従ってパターン行列の因子が並んでいる.しかし,Stata側では,SPSSの「回転後の負荷量平方和」に相当するものが表示されないので,回転前の因子との対応がどうなっているのかはわからない.
最尤法1(デフォルト状態):そもそも,デフォルト状態で計算させると,SPSSとStataでは,抽出される因子数などが違っている.
最尤法2(抽出因子数を合わせる):SPSSとStataで抽出される因子数を揃えると,同じ結果が出るようになる.そのためには,SPSSの「因子の固定数:抽出する因子」の数と,Stataの”Maximum number of factors to be retained” の数を揃える.Stataの方は,最大数(maximum number)と記述されているが,実際には固定数である.最大数を設定すると固有値が1未満の場合でも,ちゃんと指定した最大数まで取ってくれる.
最尤法のバリマックス回転:Stataの回転時のオプションで”Apply the Kaiser normalization”を選択すれば,SPSSのデフォルト状態と同じ結果が得られる.コマンドでは,
rotate, kaiser
である.
最尤法のプロマックス回転:Stataの回転時のオプションで”Apply the Kaiser normalization” を選択し,さらに,Promax power=4 とすると,SPSSのデフォルト状態と同じ結果が得られる.コマンドでは,
rotate, promax(4) oblique kaiser
である.
ただし,アウトプットのSPSSのパターン行列と,Stataのパターン行列は,因子の並び順が異なっている.SPSSの場合には,「説明された分散の合計」の「回転後の負荷量平方和」に現れた因子順に,パターン行列の因子が並んでいる.しかし,SPSSの「回転後の負荷量平方和」の成分は,大→小の順番に並んでいない.(「抽出後の負荷量平方和」の順に大→小へと並んでいる.)Stataの場合には,SPSSの「回転後の負荷量平方和」を大→小の順番に並べた上で,その順に従ってパターン行列の因子が並んでいる.しかし,Stata側では,SPSSの「回転後の負荷量平方和」に相当するものが表示されないので,回転前の因子との対応がどうなっているのかはわからない.

18 2月

ビジョンを問いただされて

先日,自分が留学したのと全く同時に渡米して,LAの近郊Brentwoodでインプラント専門の歯科医をしている旧友に24年ぶりに再開した.彼は,当時から野心家で,話をしていると,今もなお新たな目標を持っていることがわかった.相変わらずの野心家である.

その彼が,「竜平にとっての(教育の)ビジョンは何?」とぼくに問うた.一瞬ためらったが,ナイーブではあるが,「世界のどこでも生きていける人を作ることかな」と答えた.ややこっぱずかしい感じもするが,たぶんそうだろうと思う.そう答えたことが,妙に心の片隅に残っているので,こうやって書いておくのがよいのかもしれないと思ったりした.

おかしくなっている日本を直そうとするのでもよい,日本を見限って,あるいは野心があって海外に飛び出すのもよい.いずれにしても,日本でしか生きていけないとか,海外で生きていくなんてそもそも考えたこともないとか,外国から日本がどう見えているかに関心がないとか,そういう時代ではなくなってきているとは思う.少なくとも,海外を視野に入れた方が選択肢が広がる.自分のような者が,日本から出たことのない大学教員とは違った役割を果たしていくのがよいかなと思う.

13 1月

Orange Network誌に「大統領選挙と選挙制度の不公平、そして民主主義のあり方」を寄稿しました.

2017-01-11 14.34.40ほぼ1年ぶりの投稿です.(ブログとして,ほとんど機能していないですね.)

現在,半期ですが,渡米しており,母校のUCIに滞在しています.そのようなわけで,いろいろ経緯はあるのですが,地元オレンジ・カウンティの日系誌である”Orange Network”誌に「大統領選挙と選挙制度の不公平、そして民主主義のあり方」という記事を寄稿しました.

著作権がどうなっているのかとかよくわかりませんので,場合によっては記事を削除するかもしれませんが,フリーペーパーへのギャラなしの寄稿ですし,オレンジ・カウンティの人たちだけしか読んでもらえないというのももったいないように思いますので,ここにアップしておきたいと思います.

原稿の内容は,選挙結果や制度についての説明をという依頼に基づいて書いた部分が多くを占めますが,一番言いたかったことは,最後のパラグラフですかね,以下,記事内容です.

—ここから—

2017-01-11 14.34.05「大統領選挙と選挙制度の不公平、そして民主主義のあり方」, Orange Network, January 2017, p.5

2016年11月8日、大方のマスメディアの事前予想を覆してドナルド・トランプ氏が大統領選挙に勝利した。これをめぐって、投票の公平性に関わる議論が起こっている。全米の総得票数は、クリントン氏の得票数がトランプ氏のものより多かったからである。しかし、合衆国の投票制度は単純な総得票数を争うものではないために、このような逆転現象が生じてしまったのである。本当にこのような制度は公平(フェア)なのだろうか? また、民主主義という制度にとって、現行の投票制度は適切と言えるのだろうか?
投票制度に関わる問題の中でも最も知られたものが、各州での得票が多かった候補者が、その州に割り当てられた選挙人を総取りする方法(エレクトラル・ボート)である。この方法の問題点としては、勝者に1票足りなくても、「少数派」となった人々の意志が選挙結果に反映されないことである。獲得票数の比率によってその州の選挙人獲得数を按分してはどうかという案もあり、メイン州とネブラスカ州ではそれに類する方法が採用されている。このような総取りの方法ため、多くの州では一貫して共和党か民主党のどちらかが勝利することになる。そして、「スウィング・ステイト」と呼ばれる共和党と民主党の勢力が拮抗している州が、そのときどきにどちらに転ぶかによって、全米の選挙結果が、事実上決まってしまうということが起こるのである。逆に、常に結果が一貫している州では、投票に行くモチベーションが下がってしまうという問題も指摘されている。
また、各州には選挙人(エレクター)の数が割り当てられている。最も人口の多いカリフォルニア州は、2016年選挙においては、他州に比べて多い55人が割り当てられていた。しかしながら、カリフォルニア州の選挙人数は、2004年以降55人のままである。その間カリフォルニア州の人口は増え続けているし、そうであれば選挙人の数も増えてよいのではないか? 実際、人口と選挙人の比を取ると、カリフォルニア州などでは選挙人数は過小になっており、ワイオミング州などでは過大になっている。ワシントン・ポスト紙(11月17日付け)によると、2016年において、ワイオミング州の1票は、カリフォルニア州の1票の3.6倍の重みがあるという。
さて、このような選挙制度は不公平なのだろうか? これは選挙制度のみならず、民主主義のあり方に関わる問題である。何を基本的に守らなければならない善と見なすかが違うと、現状に関わる認識も、何を改善すべきと考えるかも違ってくる。
もう少し踏み込んで説明しよう。「民主主義=多数決の制度」ではない。少なくとも完全にイコールではない。民主主義は、多数決を伴う側面を持っていることも確かだが、どんなに少数の意見であっても、それに耳を傾け、社会の構成員全員がよりよく生きられる社会を構想しようとする制度でもある。合衆国では、州の人口が少なくても、最低3人の選挙人が割り当てられている。これは、人口が少ない州を優遇することになるという側面もあるが、各州は合衆国の一員であり、人口の少ない州の少数の意見も大切にするという意志の表れでもある。各州の選挙人の数は繰り返し見直されているが、選挙人の数が単純な人口比で決まらないのは、そのような理由があるのである。
このところ、日本における安倍政権の誕生と「集団的自衛権」を含む「安保法案」の成立、イギリスのEUからの離脱(ブレグジット)、そしてトランプ政権の誕生と、世界は一時のグローバル化の流れから一転し、一国ないし強固な同盟国間の保護主義への道を歩み始めているように思える。民主主義とは一国内において成立するものというのが基本的な了解であり、各国政府は各国民のよき生を守ることに責任を持つ。しかし、戦後からの保護主義が続いていた1970年代までの世界とは違い、現在の世界は、人々もモノもはるかに緊密に結びついている。大国の急激な対外政策の変更は、その国だけでなく、世界の人々にもモノにも大きな影響を与える。だから、大国の政権が一国内の人々に対して責任を持つために、同時に他国に対して理解し配慮を示すことも求められるようになっているのである。過激と言われた選挙戦におけるトランプ氏の発言がどこまで軟化するのか。すなわち、国内の支持層以外の人々に対して、また投票権のなかった移民などに対して、どれだけ配慮を示せるか、そして、他国や他地域の人々やモノに対してひどい打撃を与えることなく柔軟な新機軸を打ち出せるかどうか、今後のトランプ氏の政権運営から目が離せない。

—ここまで—

10 2月

シノドスに「誰が『集団的自衛権』を容認したのか?――2014年松本市調査に見る支持者像」が掲載されました

先日2月8日,シノドスに「誰が『集団的自衛権』を容認したのか?――2014年松本市調査に見る支持者像」が掲載されました.

これまで,排外主義と集団的自衛権の容認を結びつける言説が多かったように思います.調査の結果から,排外主義からの効果も認められるが,それ以上に愛国主義からの影響が強いことを示しました.

今年度末には,学部紀要にて,もっと詳細な分析と考察を掲載する予定です.

また,2015年に9月には,長野県20市町村における調査も行っており,そこでも集団的自衛権に関わる質問をしていますので,その結果についても追って何らかの形で発表する予定です.

11 6月

「村山研一先生の三回忌を偲ぶ会」が行われました

去る6月7日(日),信州大学人文学部の人文ホールで,「村山研一先生の三回忌を偲ぶ会」が開催されました.当日は,村山先生のもとで社会学研究室を運営してきた歴代の助教授・准教授4名,村山先生の後任の現同僚と,十数年前からの学生・院生のOB/OG,村山先生から2ヶ月だけ指導を受けた現在の4年生のスタッフなど,30名弱の参加がありました.

歴代の助教授・准教授が,昔の写真などをプロジェクターで見せながら,村山先生や社会学研究室の懐かしい思い出を語り,また,OB/OGたちもそれぞれの思い出を語りました.定年を一年後に控えて急逝された村山先生のご人徳を,それぞれが感じているのだなと胸が熱くなりました.

本来であれば,村山先生の定年を記念するパーティを開き,そのときにこうやって思い出を語り,また,村山先生の30有余年の信大でのお話を伺いたかったです.ともあれ,2年前は,フォーマルな「お別れ会」という形で,ほとんど思い出話をすることもできなかったので,このような機会が持ててよかったです.この企画を最初に提案してくれた,前任のWさんにも感謝します.

11 6月

九州大学地球社会統合科学セミナー「寛容社会の姿を求めて」で講演してきました

去る6月5日(金),九州大学の三隅一人先生からお声をかけていただき,地球社会統合科学セミナー「寛容社会の姿を求めて」で3人の講演者の1人として講演させていただきました.

プログラムは,以下のとおりでした.

辻竜平@信州大学人文学部[社会学]
「寛容とその測定、および、寛容と定住外国人に対する意識との関連性」
関口正司@九州大学大学院法学研究院[政治哲学]
「政治哲学の観点から見た寛容論の課題」
高野和良@九州大学大学院人間環境学研究院[社会学]
「地域福祉活動を支えるのは人々の寛容性なのか?〜山口県内の高齢者
見守り活動をもとに〜」

3人の報告の後,大学院生お2人からコメントしてもらい,それにリプライする,という構成で,大学院教育の一環という意味もあるようでした.

ここ10年ほど,私の関心は,信頼から寛容へ移ってきています.しかし,信頼もそうですが,寛容も負けず劣らずさまざまな学問領域で細々と(小さな波はあるものの,少なくともここ20年の信頼ほどには大きな関心を集めることなく)続けられてきたこともあって,定義や分類なども錯綜している状態にあり,ようやくここに来て,何とか整理が付けられそうな気がしてきています.

そのようなわけで,私の講演では,まずは,(信頼研究も含めた)寛容研究の枠組み整理から始めて,この講演の話のスコープを明らかにしてから,特にウォルツァー流の寛容理論に基づいた尺度構成,そしてその尺度と定住外国人に対するいくつかの意識との関連性について,昨年,卒論生とともに松本市で行った調査の分析結果を報告しました.

関口先生は,J.S.ミルの政治哲学の中にある寛容論の課題として,自由や寛容の擁護論が,反自由主義的・非寛容的議論に転ずる逆説的可能性や,無関心の問題について論じられました.(暫定的?)結論としては,知的ゲームや抽象論としてではなく,具体的な場面を念頭に思慮的に考えていくべき課題であるとの考えを示されました.

高野先生は,地域福祉活動と「寛容」について,事例を中心としてお話になりました.地域において孤立死といった問題が生じたときに,それを「地域の恥」と捉えて隠蔽することがあるが,それは問題を認めずに排除するという意味で寛容度が低い.一方,「できれば何とかしたい」と考えて「見守り活動」などの協働的活動がなされることもあるが,これは問題を認めて包摂するという意味で寛容度が高い,と考えられるでしょう.しかし,それは,生活への干渉につながりかねず,対象者と担い手の関係調整が必要,といった課題があげられ,対応の手がかりについて議論されました.

私のものを含めて3つの講演がありましたが,「寛容」をめぐる議論は,やはりバラエティに富んでいるなと,改めて感じました.他にももっと切り口があるのだろうなという予感もあります.まだまだ寛容をめぐる概念整理といった作業を続けていかないといけないし,そういった整理が適切であるかどうか,実証的に検討していく必要があるなと感じました.

大学院生の方々からコメントをもらい,リプライし,その後もその院生の方々や三隅先生,高野先生を交えて懇親会の場でいろいろと議論しました.その中でふと自分の今やっていることに対する気づきがありました.ウォルツァーはコミュニタリアンなので,コミュニティなり社会なりに何某かの守るべき価値や文化があると考えています.だからこそ,自集団と他集団といった対立があるという構図を,意図してか意図せずしてかは別として,結果的に描くことになってしまうことに改めて気づきました.また,リベラリズムと違ってコミュニタリアニズムは,自由を際限なく認めないので,そのことが,コミュニタリアン的寛容性尺度を構成する肝であり,それが,もう少し尺度をブラッシュアップするための手がかりになりそうだなと感じました.

難しい話はさておき,金曜日は,松本空港から福岡空港までの飛行機に乗るつもりでした.松本空港は駐車料金が無料なので,少し早めに出て大学で資料を印刷し,その足で空港に向かう予定でした.ところが,うちを出たら,エンジンがかからない! 一方でJAFを呼び,また一方で同僚に印刷をお願いし,30分後に大学で同僚から印刷物をピックアップし,車中から空港のカウンターに電話し(ハンズフリー機能付きですので,電話機は手に持っていません),ギリギリになるけど行くからねと念押しし,何とか出発時刻10分前に到着.1日3往復しか便のないガラガラの空港なので,手荷物検査などをダーッと通って何とか遅延させることなく搭乗しました.何でこんなマンガみたいなことが起こるのかと. …翌日帰ってくると,やはりエンジンがかかりませんでした.再びJAFを呼んで,そのままディーラーに直行.バッテリー交換となりました.別にライトを付けっぱなしたとかいうことではなかったのですが,お亡くなりになるときには,ある日忽然とお亡くなりになるものだと知りました.エンジン様に寛容になるには,余裕を持って出かけることだなと,全くつまらないことを感じました.

ともあれ,三隅先生をはじめ,九大の皆様,お世話になりました.

13 5月

最低限のマナーを守ったレビューを

3日ほど前だろうか,アマゾンに長らく掲載されていた 辻・佐藤編著『ソーシャル・キャピタルと格差社会』への糞レビューが削除されていることに気がついた.本当によかった.
どういういきさつでそうなったのかは知らない.レビューアーが削除したのかもしれないし,何らかの手段が講じられたのかもしれない.
そのレビューの内容は,あまりにもひどいもので,本書の内容とは関わりのない,ソーシャル・キャピタル論全般に関わる恨み辛みが書かれているだけだった.おそらく中身は読んでいないのではないか.…実は,私は,何回かアマゾンとやりとりをして,あまりにひどい内容なので削除してほしいと依頼したが,そのときには取りあってもらえなかった.アマゾンとしては,個人に対する誹謗中傷のようなものでないかぎり,削除しないとのことだった.本書と無関係なレビューであったとしても,個人的な誹謗中傷ではないからとのことだった.ともあれ,あのような忌まわしいものが削除されてよかった.
私自身も,アマゾンで本を買うときにレビューを参考にすることはある.特に自分の専門外の本を買うときには,参考にすることが多い.星が何個付いているかというのは,レビューの中身を読まなくても,最初に目に付くものであることは確かである.だから,SC論に関心があって検索をしたが,星の数だけ見て,「買わんとこ」と思って買ってもらえなかったことも多かったのではないかと思う.潜在的読者を,あれで失ってしまったのではないかと思うと,とても残念である.
レビューを書いてもらうことは,よいことだと思う.ただし,最低限のマナーというものがあるだろう.自分の主張をするなと言うつもりは全くないが,本文の内容をちゃんと読んでから,本文の内容と絡めつつ,的確な主張してほしいと思う.単に,自分の主張や思考と相容れないのでダメな本だ,とだけ述べるのでは,本を評価したことにならない.そういうのは,著者に失礼だし,潜在的読者にとっても害でしかない.レビューに関わるリテラシーというものがあるかどうかは知らないが,常識的に,初めて出会った人に,いきなり「お前,馬鹿」とか言わないものだということが分かっていれば,最低限のマナーくらい自然に守れるものだと思う.

20 4月

キムリッカ『新版 現代政治理論』:翻訳ミスと思われる箇所について

現在,社会調査実習に向けて,学生たちの下地を作るべく,キムリッカの『新版 現代政治理論』を読んでいます.
これだけの大著の翻訳は,たいへんなご苦労だったことだろうと思います.
翻訳をミスなく行うのは,自分の経験からもたいへん難しいことですが,重要な箇所における翻訳のミスと思えるところを,見つけ次第,書き留めておきたいと思います.
もちろん,私の方が間違っている可能性もありますので,ご指摘くだされば,修正・削除などいたします.

4月20日記
翻訳p.81, ll.10-11, すべての社会的な基本材―自由や機会,所得や富,自尊心の基盤―は,その一部ないしは全部を不平等に分配することが最も恵まれない人々の利益にならない限り,平等に分配されなければならない.

英文p.55, ll.11-14, [A]ll social primary goods – liberty and opportunity, income and wealth, and the bases of self-respect – are to be distributed equally unless an unequal distribution of any or all of these goods is to the advantage of the least favored.

私訳,すべての社会的基本財―自由や機会,所得や富,自尊心の基盤―は,それらの財の一部ないし全部が不平等に分配されることが,最も恵まれない人々の利益になるのでなければ,平等に分配されねばならない.

下線を付けたところが主なポイントです.unlessの訳し方ですが,読みようによっては誤訳ではないのかもしれませんが,誤解を招きやすい表現だと思います.
この部分,『正義論』からの引用なので,もしかすると,日本語訳からそのまま持ってきたのかも? 日本語訳を持ってないので確認していませんが,とりあえず.

もう1箇所,変だと思うところがあるのですが,もともとの文章自体がよく理解できていないので,私訳はせず,指摘だけしておきます.

翻訳p.82, ll.12-13, 第一原理―各人は,すべての人々にとっての同様な自由の体系と両立しうる最大限の基本的自由への平等な権利を持たなければならない.

英文p.56, ll.1-2, First Principle – Each person is to have an equal right to the most extensive total system of equal basic liberties compatible with a similar system of liberty for all.

下線を付けたところがポイントです.A compatible with Bという表現から,比較されているのは,system同士ということになろうかと思います.訳文としても,「両立しうる」というよりは,Bと「比肩しうる」Aというような訳の方が適切かと思われます.そうすると,an equal rightとは,平等な権利ではなく,同等の権利とすべきではないでしょうか?

ひとまず以上です.
私の方で誤りがあれば,ご指摘ください.
また,気づいたことがあれば,追記するかもしれません.

4月23日追記
第一原理(翻訳p.82)について,ツイッター上で @takemita さんにコメントをいただきました.いろいろと説明をいただいき,もとの訳で,おおむねよいのではないかと考えるようになりました.
原文を読むと,構文上では,確かにsystem同士が対比されているのですが,私自身は,このsystemということの意味内容がきちんと理解できていませんでした.
このsystemについて,set(集合)というような意味で捉えたらよいのではないかと教えてもらいました.教えてもらったことをそのまま引用しておきますと,

Aさんが{他人を殺す自由,他人に殺されない自由}という自由の集合(への権利)をもつとすると、これはBさんも同じ自由の集合(への権利)をもつという想定と両立不可能です。
ゆえに、「他人を殺す自由」は第一原理による保障の対象からは外れることになるわけです。

次に,翻訳文では翻訳されていないように見える the most extensive total system については,

両立可能性の条件を満たす諸自由を全部拾ってきて集合を作るというニュアンス、”total”はその集合の全体、という感じかと思いますので、「最大限」でカバーできているように思います。

とのことでした.
その説明にある「諸自由を全部拾ってきて」というところで,extensiveが,上の例のように集合の「外延」という意味であると理解すれば,それで了解可能ではあると思われました.
しかし,この点については,訳文として,こんなに端折ってしまってよいものだろうか,という感じもします.「最大限」という言葉を見たときに,「最も外延的で全体的な体系(集合)」という,上で説明してもらったことが,誰にでもすっと思いうかぶというようなものではないようにも思われます.ロールズの理論をきちんと理解できてさえいれば,「最大限」という訳で了解可能としても,訳文として端折りすぎではないかという気がしないでもありません.
そのほか,”equal basic liberty”の”equal”が訳されていないように思えるが,それは,”similar”でカバーできているようにも思えるといったご意見もいただきました.
また, @takemita さんは,そもそもロールズの英語の文章自体が下手くそなのではないか,とご指摘.うーん,確かにそう言われてみると,確かにクセのある用語法(たとえば,system)だし,(構文の複雑さは,まあこんなもんかなという感じもしますが,読みやすくはないし,)その意味では下手くそなのかもしれません.そういった場合に,直訳してやっぱり意味が分からないということでよいのか,訳者の方で意味が分かるように訳出する方がよいのかは,難しい判断だと思います.訳者は,後者のような判断をしたということなのかもしれません.
ともあれ,systemの意味,訳文のあり方など,いろいろと勉強になりました.
それにしても,やっぱり翻訳は,奥が深いですね.餅は餅屋と言いますが,当該理論について十分に理解しておかないと,ちゃんとした翻訳はできないのだなと思いました.

18 4月

『社会を数理で読み解く』は,けっこう推しです

先日,盛山和夫・浜田宏・武藤正義・瀧川裕貴,2015,『社会を数理で読み解く』,有斐閣 をご恵贈いただきました.
アナザー数理社会学入門か,と思ったのですが,これまでの入門書とは違うなという感じがしました.ざっと見た感想を記しておきます.

類書としては,小林・木村編著の『考える社会学』や,やはり小林・木村著の『数理の発想でみる社会』,あるいは数土・今田編著の『数理社会学入門』や,数理社会学会監修の『社会を〈モデル〉でみる』などがあります.
本書は,内容の類似性からすれば,これらのうち『考える社会学』と『数理の発想でみる社会』の流れをくむものと言えるように思います.この2冊と比較しながら,見てみたいと思います.
最も古い『考える社会学』(1991)の章構成は,「予言の自己成就」「社会的ジレンマ」「プロテスタンティズム」「官僚制の逆機能」等々,18章構成,本文部分のみで270ページあまり,その章構成は,まるで『命題コレクション社会学』(1986)の数理社会学版とでもいうような章構成になっています.もちろん,その一部は,現在でも数理社会学会でも続いているテーマもありますが,ほとんど見なくなったようなテーマも含まれており,やはり古さは否めないように思われます.この本が出版された頃,私はまだM1で学会の動向を掴んでいたわけではありませんが,おそらく『考える社会学』は,数理社会学が『命題コレクション』が扱うのと同等の範疇を広くカバーすることを示すことで,数理社会学が狭隘な問題を扱う一分野ではなく,幅広い射程を持つことを示すことを,最も大きな役割としたのではなかったでしょうか? 各章は,各テーマに関わる簡単な導入から入り,その都度問いを立てながら(問いかけながら)理論とモデルを展開するという方式で進められます.数理モデルは最小限で,「前提」「定義」「命題」などを明示し,数理モデルというよりも論理的な思考を展開することを重視しているように思われます.
続いて,『数理の発想でみる社会』(1997)です.これは,『考える社会学』と同じ編者2人が,こんどは著者となっています.章構成は,「階層と友人選択」「マルコフ連鎖と影響過程」「集団目標の実現と集団規模」「個人的合理性と社会的最適性」「職業的地位の分布モデル」「優越関係のネットワーク」の6章構成となっています.本書の特徴としては,『考える社会学』と比べると,数式が多く,本格的な数理社会学入門と言えるでしょう.章立ても,著者2人の専門領域にやや偏っている感もありますが,現在の数理社会学につながる内容を扱っていると言えるでしょう.各章では,その章で使用する数学の中で特に文系の学生たちにとって必要と思われるもの(たとえば,級数,行列,微分など)を最小限度,丁寧に解説しています.しかし,各章の導入は,雑駁すぎるようにも思われます.なぜ,そういった問題を扱うのかという動機があまり強く感じられません.

そして,本書ですが,筆頭編著者が盛山御大,そして,現在の数理社会学会の中でもきらめきのある3人の著者によるものです.各著者が2章ずつ書いていますが,いずれも練られた内容です.上記2冊と比べると,まず,問題への導入部分が簡潔ながらも重厚感があるように思います.いきなり世間離れした感じの導入ではなく,理論的な説明から入り,モデルの導入に必然性が感じられるようになっています.また,『考える社会学』のように,随所に唐突すぎると思われるような問いが挟まれることによって思考がかえって邪魔されるようなこともなく,『数理の発想でみる社会』のように,数式の展開をひたすら追っていくのでもなく,当該トピックについて,じっくりと理論とモデルを織り交ぜて突き詰めていこうという意志が感じられる点が,たいへん優れていると感じました.また,各章の内容は,各著者がすでに論文にしたものを下敷きにして,それを丁寧に解説しようとするものでもあり,初心者向けにわざわざ簡単なモデルを作って紹介したというような感じがありません.とりあえずの入門書として入門書を作ってみましたという感じではないところが,数理モデルを真面目に勉強してみようという読者を引きずり込む力を持っているように思います.実際,私自身も,他の教科書については,特段に感想文を書こうとは思わなかったのですが,これは,なかなかいいんじゃないかと感じます.来年度でも,何かの授業で使ってみるかと思わせるものがあります(年度が始まったばかりなので,まだ来年度の話をすると鬼が笑うと思いますが).
本書をだれに読んでもらいたいかというと,数理社会学の扉を叩いてみたいという初学者もそうですが,むしろ私としては,工学部などで,社会工学とか,社会何ちゃらに関わっているような研究者に読んでもらいたいと思います.『数理の発想でみる社会』だと,おそらく工学者が読むと,これくらいのことなら自分でもできるし,ここから特段に学ぶものはないと思えるでしょう.しかし,たぶん本書は違うと思います.社会学者がどういう問題に挑んできたかを各章の導入部分で感じてもらえるのではないかと思うからです.モデルの展開の作法はそんなに違わないかもしれないですが,モデルに至るまでの問題関心という部分で,社会学らしさが現れており,こういう話ができないと,工学者と社会学者は,深い対話ができないだろうと思うのです.数理社会学は,社会をモデル化するだけではないんだというあたりのアレですね.
そして,見るべきは,やはり著者たちの力量でしょう.最近の数理社会学会を見ていると,若い頃に数理モデルをやっていても,もうほとんどやっておらず,今は計量だけといった人が多いように感じます.私を含めてそうですね.数理モデルを扱う能力が歳とともに低下するのか,計量ができないと就職できないといった現実的な事情からそうならざるをえなかったのか… 何かは知りませんが,わりと残念な感じに成り下がる人も多いと感じています(数理も計量も中途半端という).しかし,本書の著者たちは,計量もするけれど,やはり数理の人だよなと思わせるような人たちばかりです.言ってみれば,最強メンバー,スター集団ですね.残念な人がくっついているという感じがありません.そして,数理モデルだけではなくて,上述のとおり,ちゃんと社会学的な問題の面白みを伝えられる人たちでもあります.

若干,無い物ねだりをするならば,サブタイトルが「不平等とジレンマの構造」となっているように,ネットワーク分析に関わる章がありません.自称ネットワーク屋さんとしては,ちょっと残念です,現在,数理社会学会の大会では,ネットワークに関わる報告数はけっこうたくさんあるのですが,シミュレーションやウェブ・マイニングなどではなく,数理系のネットワーク・モデルをバリバリ展開するという感じの人が少ないように思います.お前がやれよ,という声が聞こえてきそうですが,それは華麗にスルーして言うと,やっぱりネットワーク・モデルの章がほしかったですね.この著者たちに堂々と挑めるだけの人材という別の条件を満たすことも,なかなか困難ではあるのですが.

17 4月

紀要論文「口承文芸のヴァリアントの類似性と通婚圏との関係:新潟県旧栃尾市で採取された「三枚のお札」の分析」が発行されました

今春発行された紀要論文「口承文芸のヴァリアントの類似性と通婚圏との関係:新潟県旧栃尾市で採取された「三枚のお札」の分析」が,大学のレポジトリで公開されました.

何でこんなものを,と思われるかもしれません.
まず,「三枚のお札」という物語が,とても魅力的です.幼稚園の頃,昔話を覚えてきてみんなの前で発表するというのがありました.そこで選んだのが,「三枚のお札」でした.学研の雑誌の付録のソノシートがあり,これを口調から何から覚えて発表しました.(まさか,YouTubeにソノシートがあがっているとは! 驚いたなぁ.テキストが瀬田貞二さん,語りが宇野重吉さんだったらしい)他の子たちが,桃太郎や浦島太郎やといったものが多かったので,とてもウケて,先生にもほめられて,いい気分になったのを覚えています.(この頃から,読むよりも聞く方が,アタマに入ってくるような気がしていましたが,それは今も変わっていません.)
時は下り,2004年10月,中越地震が発生しました.私は,被災地の1つである栃尾市(現,長岡市)で研究をすることにしたのですが,このとき,『栃尾市史』の1巻として,水沢謙一氏が市内で収集した「三枚のお札」だけを集めた資料集があることに気づいたのです.「三枚のお札」が大好きだった私は,それを1部買い求め,これを社会学的に処理することはできないかと考え始めました.
ピンときたのが,社会ネットワーク分析における情報伝播の理論です.昔話って,どうやって伝播するんだっけ? おばあちゃんたちが,孫に伝えていくという話は聞いたことがあるな.とすれば,地理的な分布と関連があるかもな.ということで,あとは,関心のある方は,本文を読んでみてください.

私としては,たとえば,文学研究者なら,こうはしなかっただろうな,と思えるものにしたいという気持ちがありました.結構うまくいったのではないかと思っています.
ただ,言語学(日本語学)の作法を知らないので,こういうコーディングの処理で納得してもらえるのかどうかについては,あまり自信がありません.だいたいこんなもんだろうという感じで処理をしてしまったところがあります.私は常にオープンマインドなつもりですので,何か問題があればご指摘いただけるとうれしいです.
すでに何年か前に,論文としては形になっていたのですが,粗削りなのはわかっているので,投稿論文にするのを躊躇しているうちに,年月が経ってしまいました.そのようなわけで,今回とりあえずこのような形で出すことにしました.楽しんでもらえればと思います.