03 9月

Linton C. Freeman 先生を偲んで

8月17日の朝(現地時間),Lin Freemanが亡くなったとの知らせが届いた.日本では,日が変わって8月18日の午前3時頃,私は,寝る直前だったが,あまりの驚きと溢れ来るさまざまな思いのために,しばし呆然としてしまった.

1992年,修士課程2年(M2)のゴールデンウィーク明け,突如として留学することになった.自分からしたいと言いだしたというよりは,指導教員の髙坂先生から説得されたという方が近い.しかし,決めたからには準備をしなければならず,修論(これはめどはたっていた)と並行して,TOEFLとGREの準備をすることになった.夏休み中は南方のイフ外語学院に通って英語漬けだった.
大学院の受験申請期間を考えれば,TOEFLを受けられるのは2回か3回,GREは1回だけだった.
結局,TOEFL(当時は,ペーパー)は550点を超えたが600点に満たず,GREは,vervalとmathで1100点ちょうどだったので,申請先も限られていた.
実際に,年末頃から何校かにアプリケーションを送ったが,次々とリジェクトの手紙が届いた.
残るは1校,University of California, IrvineのGraduate Programme in Social Network Analysisだけになった.
思い切って電話をして,何とかしてもらえないかと言ってみることにした.
そこで私は,初めてプログラムのチェアだったLinton Freeman先生と話したのである.「奨学金が用意できないんだ.それでもよかったらアクセプトするけど.」「はい,お金のことは何とかしますので.」
1993年4月6日付けで,Letter of Accceptanceが送られてきた.
家族とともに,飛び上がって喜んだ.

1993年6月,大学院の授業自体は9月からだが,語学に不安もあったので語学学校に入るために渡米した.
すぐにUCIの彼のオフィスを訪れて挨拶をした.
彼は,ポライトに,明るく迎え入れてくれた.「これからは,Linでいいよ.」
そしてすぐに,彼は飾ってあった大伸ばしにした写真を壁からはがし,”I surf.”と言った.そこには,誰かが撮った彼のサーフィンする姿が映っていた.
この頃は,アメリカでもe-mailやWWWが使われ始めた頃で,その後彼が作った最初のホームページには,”I surf.”として,彼のサーフィンする写真が載っけられていた.

9月,彼の「相互作用モデル(interaction models)」というセミナー形式の授業が始まった.それは,彼の最後の授業であった.それは引退の前年度だったのだった.
彼のセミナーでのスタイルは,まさ自由人であり,彼のファミリーネームのとおりであった.テーブルの上に脚を上げ,何かを飲みながら,くつろいだ格好で話をするのだ.服装も,いつでもサーフィンに行けそうな格好で,Tシャツに半パンだった.「えっ,センセー,金○,丸見えでっせ.」
それはそうと,リンは,私を今年の新入生だと紹介し,言葉が難しいと思うので,誰か見てやってくれということで,Jeff Sternという上級生を紹介された.また,セミナーを録音して後で書き出せばいいよと言われたので,テープに録音することにし,聞きそびれたことなどを後で聞き直してノートに補足し,それをジェフに見せて直してもらうということをやった.(あのテープは,帰国のさい,荷物の容量オーバーのため,JeffかFitzに預けた気がする.)
最初の授業では,文献リストが配付され,次週以降,その中の論文を院生が1人1つずつ割り振られて紹介するという形式だった.
私は,たまたまリンの書いた論文を担当することになった.単に紹介するだけではなく,コメントや疑問点を差し挟みながら紹介することが慣例のようだったので,私は,「バカな学生を取ってしまった」と思われないように,頑張った.しかし,頑張りすぎたようで,若干コメントが辛辣な感じになってしまったようで,リンはやや憮然とした感じの表情をしていたような気がする.しかし,そんなにバカじゃないとは思ってもらえたように思う.
その授業をはじめ,最初の学期の成績は,全てA(Sはないので,それがGPA換算で4.00)だったので,安心した.

1994年度から,リンは名誉教授となったが,彼自身は授業は持たないものの,オフィスは維持しており,院生の指導などもしていた.
私のプログラムは,コースワークが2年だったので,2年目になると,ぼちぼちdissertation(博士論文)のことも考えるようになり,構想を相談するようになっていった.
私の指導体制としては,リンとJohn Boydがco-chairということになった.
そこに,1995年1月の阪神・淡路大震災が起こったのである.
実家は被災して半壊であった.
私はすぐに今後のことについて相談した.1つは仕送りが危ういかもしれないこと,もう1つは,博論をどうにか早くあげる方法はないかということだった.
前者については,秘書のKathy Albertiさんに相談し,年度内の授業料分の無償奨学金を整えてもらえることになった.(結果的に,辻家では,日本政府からよりもアメリカからの方が多くの支援金をもらったのではないだろうか.)
しかし,問題は後者であった.
修士論文を書く頃までは,合理的選択理論など個人主義的な理論に馴染みすぎていたせいで,構造主義的なネットワーク分析の思考法に転換できなかった.震災を機に,何とか早く出してもらえないかと相談した.気持ちは理解してもらえたが,研究の方はなかなかうまくいかなかった.博論のアイディアを持っていっても,これは,個人主義的な考えを脱せていないとか,構造主義的な考え方になっていないとかで,これではだめと何度も言われ続けた.2年間のコースワークが終了するタイミングでも,何も決まらず,3年目に突入した.たぶんしびれを切らされたのだろう.ある日,手始めにUCIの学生寮に入り込み,そこで観察したりしながら,みんなと顔なじみになり,それからソシオメトリック・テストをやってみるようにと言われた.そして,そのデータを分析し,何とかPh.D. candidate(博士候補生)となるところまでは認めてもらった.既に1997年の春になっていた.私としては,この続きでデータ分析を完了すれば,学位が取れるかなと思っていた.
しかし,リンとジョンからは,次のように申し渡された.リンとジョンはチェアから降り,代わりに,Douglas Whiteがチェアとなる.ジョンは,博論審査の委員会のメンバーとしては入るが,基本的にダグのそのもとで何か実証研究をやること,と.リンは,完全に外れてしまった.その後,博論を書き上げるまで,リンとは,何か気まずい雰囲気が流れていた.
ともあれ,その後に起こったことは,先日,山岸俊男先生の追悼文に書いたような次第であった(山岸俊男先生を偲んで).1997年秋から1年間,北大の山岸先生にお世話になり,98年の秋にUCIに戻り,それから半年強で博論を書き上げて帰国した.99年の5月だった.

時は流れて2004年12月,私は,日本学術振興会とアメリカのNSFが共催する,「日米先端科学シンポジウム(JAFoS)」に参加することになり,開催地がUCIの施設であったことから,合間を縫って指導を受けた先生方のオフィスを回った.ちょうどリンはオフィスにいたので,前年にワッツの『スモールワールド・ネットワーク』(原題:Six Degrees)の翻訳をやったのでそれを手渡した.すると,リンは,自分も最近本を出したんだけどと,その本を手渡され,それを翻訳してくれないかと頼まれた.
思い返せば,これがリンとの最後の対面での出会いだった.
想定外なことで面食らったが,内容的にはやれそうに思われたので,その場でお引き受けした.何よりも,他の人が翻訳するよりも,自分がやるのが日本中探しても一番よいと思ったからだ.単に翻訳をするだけでなく,リンの授業などで聞いていた話なども盛り込めると考えたからだった.
その後,出版社を見つけたり,日本語版へのまえがきを書いてもらったりと,何度かメールのやり取りをした.
しばらく時間がかかってしまったが,翻訳は2007年5月に『社会ネットワーク分析の発展』としてNTT出版から出すことができた.
それから間もなく,リンから「ありがとう」とメールがあった.
そのときの何度かのやり取りが,リンとの本当に最後のやり取りになってしまった.
その後,何度かSunbelt会議にも参加したが,リンと会うことはなかった.また,2016年秋からの半年のUCIでのサバティカルの間にも会えなかった.あの時,無理をしてでも,サーフィンをしているであろうフロリダに会いにいっておくべきだった.

私の授業では,リンの中心性指標の話をしたり,また,『社会ネットワーク分析の発展』に従って,これまでの発展史を語ったりすることがある.その都度,リンは今どうしているだろうか?と思ったりしていた.
2017年9月,ハリケーンIrmaのため,リンと妻のスーは一時友人宅に避難した.自宅に戻った後,スーは,その夜ベッドに入ったまま目を覚まさなかったという.
それから1年も経たないうちに,2018年8月17日,リンは,その後を追うように亡くなった.
リンが,自分の学生であったスーに統計学を教えるために書いた教科書 “Elementary Applied Statistics: For Students in Behavioral Science” (1965) は,スーに何度も読んでもらい,彼女がわからないと言ったら書き直すという作業を何度も重ねて書かれたものだった.結果として,非常に分かりやすい内容となっている.
時折二人がケンカをするところも見られたが,それでも見ていて深い愛情の感じられる夫婦だった.リンのスーを見る優しいまなざしが印象に残っている.

「お前が,日本で一番有名な社会ネットワーク分析の研究者になったら,日本に呼んでくれ」と言われたのは,いつだっただろうか? 候補生になるときの告知を受けたときだったような気がする.
それだけは,実現しなかったことを残念に思う.本当に.
しかし,あの日の電話で,快く私をUCIに受け入れてくれたことには,深い恩義を感じる.それがなければ,自分が今のような姿であったことは,絶対になかったからである.
リンのご冥福を心よりお祈りします.

20 5月

山岸俊男先生を偲んで

先日,以前大変お世話になった山岸俊男先生がお亡くなりになったと,北大の関係者から連絡を受けた.翌日には,海外のウェブサイトで追悼文が出されたので,公開になったものと考えて,山岸先生とのことを書き残しておきたい.

私が山岸先生と出会ったのは,1991年,私がM1のとき,東北大学(当時)の海野道郎先生が代表の社会的ジレンマの科研費プロジェクトにおいてであった.山岸先生は毎回参加されていたわけではなかったように思うが,当時から押しの強い,いかにもアメリカ帰りという独特の雰囲気を持った方であった.

時は過ぎ,私はアメリカに留学していた.3年ほどでコースワークは終えたが,dissertationの研究計画がとおらず,はや1年になろうとしていた.プライドが妙に高すぎる学生だったが,何度計画を持っていっても,これじゃダメだと言われ続けたので,さすがにすさんだ気持ちになっていた.見かねた当時の指導教員が,基礎力はあることは認めるので,候補生candidateにしてやるけど,その代わり,今後は,指導教員を変更することと,実証研究をやることが学位取得の条件だと言われた.

これは,困ったことだった.当時まで,数理モデルやシミュレーションに関心があったのだが,実証研究をやったことがなかったのだ.いきなり実証研究をやれと言われても,どうすればよいのか皆目見当が付かず,また,アメリカ人を対象に何か調査をするということは,言語運用能力という点でも問題があると思われた.

そこでふと思い出したのが,北大の山岸先生だった.どうやって連絡を取ったのか忘れてしまったが,とにかく,かくかくしかじかの理由で実証研究がしたいので,研究生として受け入れてもらえないか打診した.すると,大量の論文やらドラフトが送られてきて,今北大でやっているプロジェクトに関心があるならどうぞと,また,決める前に,本当にそれでいいか確かめにおいでと言われて,一旦帰国し,1週間ほど山岸先生宅に泊めてもらいながら研究室の様子などを見学させてもらったりした.それで,お願いしますということになり,97年の後期から1年間ということで受け入れてもらうことになった.

1年間という短い期間ではあったが,実験研究の手ほどきを受け,dissertationのために必要なデータを何とか取ることができた.また,それまでの自分と比較して,いろんなことに気づかせてもらった.アメリカでは自分ではそれなりにやってきたと思っていたが,北大の院生の人たちを見ていると,はるかに勉強や研究をやっていること(もちろん,1人で黙々とやるのも悪くないが),プロジェクト型で研究を進めると効率がよさそうなこと(これは,後進の養成という点では,よい面も悪い面もあるが)など.dissertationのために必要なデータを取らせてもらったこと以外に,本当にたくさんのことを学ばせてもらった.また,当時の院生・学生や,時折やって来る(年齢的にはむしろ近い)OB/OGと知り合えたことも大きかった.

この期間で忘れがたいのは,山岸先生の「男らしい運転」と,それで連れて行ってもらった(今ではすっかり有名になった)ラーメン屋,すごい構造のご自宅(兼事務所),北大での院生の育て方(他大学とどう違うか),口癖,靴下,などである.そして,ちょうどそのときに,先生の50歳の誕生日をみんなでお祝いしたことが,最も楽しい思い出である.

その後も,山岸先生やそのつながりから,いろいろなことがあった.

学位を取得して帰国し(1999年初夏)就職活動を始めたが,苦戦していた.もう2000年度からは無理かと思いかけていたとき,北大OGのHさんから,東大の社会心理学研究室で助手を募集しているのに出さないかと声を掛けていただいた.どういうわけかうまくいき,思いもかけず,自分なんかには無縁と思っていた東大に勤めることができた.

その後,2003年春からは,明治学院大学で専任講師として就職したが,そこで,東大よりは,北大の研究室のような指導法で学生・院生を指導した.5年しかいなかったが,そこで学部から育てた院生たちが修論をもとにして投稿した論文が,学会賞や奨励賞を受賞するなど,山岸先生の研究室運営の仕方についての教えが大いに役だった.

しかし,その後,信州大学では社会学に転じたために,社会心理学会に行くことも少なくなり,山岸先生とはやや疎遠になってしまった.年賀状のやり取りも次第になくなり,近年はすっかりご無沙汰していた.

学会では,数理社会学会とアメリカ社会学会の数理社会学セクションとの合同会議を最初に日本で開いたとき(2005年),山岸先生にホストをお願いし,私はオーガナイザーとしてサポートした.山岸先生の手慣れた運営に大いに感心し勉強させてもらった.その後しばらく,日米会議や数理社会学会大会を引き受けることになったが,そのときの経験を活かすことができた.

私はその後,山岸先生の「信頼の解き放ち理論」に対してはかなり懐疑的な立場を取るようになったが,それでも,学会発表の際には聞いていただいてコメントをくださったり,明治学院時代の私の院生にも励ましをいただいたり,懐の広い先生であった.一方で,アメリカには論敵がいて,かなりいろいろあると伺っていたが,全体としてみれば,多少批判的な相手に対しても,面白いと思う論点があれば,素直に面白いと言ってくださるなど,いろんなものを取り込んで,信頼を中核とした理論を鍛えていくことに熱心に取り組まれていた.

ともあれ,97~98年の密度の濃い1年間には本当にお世話になった.それからちょうど10年後の社会心理学会の懇親会で,あれから10年経ちましたとお話しすると,もうそんなになるのかと,私がこの世界で腰を落ち着けて歩み始めたことを喜んでくださった.しかし,20年後というわけにはいかなかった.それを目前に先生は亡くなってしまった.あれから20年経ちましたとお話しすることができなくなったこと,このところご無沙汰してしまっていたことが残念でならない.70歳の死は,あまりにも若すぎる.先生のご冥福をお祈りします.

18 2月

ビジョンを問いただされて

先日,自分が留学したのと全く同時に渡米して,LAの近郊Brentwoodでインプラント専門の歯科医をしている旧友に24年ぶりに再開した.彼は,当時から野心家で,話をしていると,今もなお新たな目標を持っていることがわかった.相変わらずの野心家である.

その彼が,「竜平にとっての(教育の)ビジョンは何?」とぼくに問うた.一瞬ためらったが,ナイーブではあるが,「世界のどこでも生きていける人を作ることかな」と答えた.ややこっぱずかしい感じもするが,たぶんそうだろうと思う.そう答えたことが,妙に心の片隅に残っているので,こうやって書いておくのがよいのかもしれないと思ったりした.

おかしくなっている日本を直そうとするのでもよい,日本を見限って,あるいは野心があって海外に飛び出すのもよい.いずれにしても,日本でしか生きていけないとか,海外で生きていくなんてそもそも考えたこともないとか,外国から日本がどう見えているかに関心がないとか,そういう時代ではなくなってきているとは思う.少なくとも,海外を視野に入れた方が選択肢が広がる.自分のような者が,日本から出たことのない大学教員とは違った役割を果たしていくのがよいかなと思う.

11 6月

「村山研一先生の三回忌を偲ぶ会」が行われました

去る6月7日(日),信州大学人文学部の人文ホールで,「村山研一先生の三回忌を偲ぶ会」が開催されました.当日は,村山先生のもとで社会学研究室を運営してきた歴代の助教授・准教授4名,村山先生の後任の現同僚と,十数年前からの学生・院生のOB/OG,村山先生から2ヶ月だけ指導を受けた現在の4年生のスタッフなど,30名弱の参加がありました.

歴代の助教授・准教授が,昔の写真などをプロジェクターで見せながら,村山先生や社会学研究室の懐かしい思い出を語り,また,OB/OGたちもそれぞれの思い出を語りました.定年を一年後に控えて急逝された村山先生のご人徳を,それぞれが感じているのだなと胸が熱くなりました.

本来であれば,村山先生の定年を記念するパーティを開き,そのときにこうやって思い出を語り,また,村山先生の30有余年の信大でのお話を伺いたかったです.ともあれ,2年前は,フォーマルな「お別れ会」という形で,ほとんど思い出話をすることもできなかったので,このような機会が持ててよかったです.この企画を最初に提案してくれた,前任のWさんにも感謝します.

14 4月

官舎から賃貸マンションに引っ越しました

6年半住んだ官舎を引き払って,このほど民間の賃貸マンションに引っ越しました.

官舎は,とにかく寒い.主たる理由はこれだったといっても過言ではありません.
1階にあった部屋は,底冷えし,いくら暖を取ろうとしてもちっとも暖かくならず,風呂など入るのは苦痛でした.
ともかく,ひどい構造でした.
入居当時,しばらく人が住んでいなかったようではありましたが,天井はカビだらけ,北側の部屋の窓の下は夜露のためか畳が朽ち果てていました.その畳を入れ替えてもらったとき,作業の様子を見ていたら,畳の下の板も朽ちていました.これも取り替えるということになり板をはがしたら,何と下は5メートルくらいの空洞.さらに,壁にも断熱材が入っていないとのこと.これは寒いぞと覚悟を決めました.
台所の湯沸かしを自分で買わないといけないのもどうかと思いましたが,洗面所にはガスを取ることすらできず,水しか出ません.
退去時に,自分で据え付けたものは撤去するように言われるので,ウォッシュレットもありません.苦痛.用はなるべく職場で,と.
風呂場は北側にあり,換気扇がないので,夏も冬も風呂場を使った後は,窓を開け放たないといけません.それでも,しらないうちにカビてきます.
窓も1枚ガラスのみ.9月も終わりになると夜露に濡れるようになります.1年目こそ,結露しないようにいろいろと対策もしてみましたが,毎日のようにやるのは非常に手間.2年目からは,「もうしらん」ということで対応しなくなりました.
なぜ,寒冷地手当が出て,氷点下10度以下になることもある松本で,東京と同じような構造の官舎を建てるのか? 愚かとしか言いようがありません.

いろいろな因果で松本にやってきたので,当初は,こんなぼろ屋でも仕方ないと思っていましたが,そんな境遇にとても情けない思いをしました.
特に,冬場になると,寒い官舎に帰りたくなく,研究室でやれるだけの仕事はしてから深夜(未明)に帰るというような習慣が身についてしまいました.
2年半ほど前に自動車を買ってからは,ときどき温泉に行って,うちでは風呂を使わなくてよいようにするようになりました.
その頃から,妻となる人と付き合い始めましたが,夏も終わりくらいになると風呂に入るのを嫌がるようになりました.2年ほど前に結婚,その後すぐに彼女が留学に出て,大量の荷物を預かったので動けなかったのですが,彼女が帰ってきたのを契機に,自分も引っ越そうと決めました.

この賃貸マンションに決めたのは,2月初旬でした.2,3物件を見せてもらいましたが,ここを夕方に見に来たときに,玄関を入ると,ほんのり暖かかったのです.気密性がいいなと思いました.また,窓も二重窓になっていたりするなど,ちゃんと寒冷地対策がなされていると思いました.もっといろいろと見て回るつもりでしたが,即決.
妻の日本での引越がある程度終わったことから,私も引越をしました.

ここに来て3日ほどになります.まだ引越荷物が散乱していますが,快適です.
シャワーを浴びるのも,最初の一時を少し我慢すれば,すぐに温まります.
トイレもウォッシュレットだし.

確かに家賃は上がりましたが,QOLもあがりました.
妻も,ここなら冬場にも来てくれそうです.
これからは,夕方はなるべく早く帰ってきて,うちで仕事をする時間を作りたいと思います.

24 3月

妻が留学していた2年間を振り返って

3月18日(水)に,妻が2年間の留学を終えて帰国しました.
その週末は,とある結婚式に夫婦ともどもで参加する要件もありましたが,妻の新居での生活のために,走りまわりました.
月曜日に松本に帰ってきて,いくつか仕事をし,今ゆっくりしたところです.
ここで,2年間を振り返っておきたいと思います.

2013年の3月末,新婚旅行を兼ねて,LA経由で妻の留学先のコーネル大学のあるイサカに行きました.ソーシャル・セキュリティ・カードを取りに行ったり,携帯電話を契約したり,ディーラーに車を見に行ったり,数日の間に,私が必要だと思うことの優先順位が高いものから順番にこなしていきました.もちろん全てを見届けたわけではなく,ペーパードライバーだった妻を残して後ろ髪を引かれる思いで日本に帰ってきました.ひとりぼっちになって帰ってくる新婚旅行というのは,心配と悲しみとがないまぜになった何とも言えないものでした.ホテルの部屋のドアのところで,お互いに不安げに別れたときの妻の表情が忘れられません.
しかし,そのうち,妻が車を買って運転免許を取り,自由に移動できるようになる頃には,向こうの生活にも慣れてきたようだなと感じられました.それでも,向上心の強い妻は,帰国するまで英語に悩まされていました.もちろん,傍目から見ていると,この間に随分と上達したなと感じるのですが.また,最初はついていくのに精一杯だった授業も,次第に理解も早くなり,楽しそうでした.また,多くの友人知人に出会うことができ,彼女自身がホームパーティを主催するなど,適応力が高いなと感心しました.
この2年間,あちこち旅行をしました.13年夏は,再度イサカを訪問した後に,ナイヤガラの滝,トロント,モントリオール,ボストンなどを回りました.13年~14年の年末年始は,カリブ海クルーズへ.大型客船でのんびりとした旅を楽しみました.また,基点となるフロリダで,キー・ウェストやエバーグレーズなどにも行きました.14年の夏は,アメリカ社会学会のためサンフランシスコで落ち合い,学会終了後にスタンフォードを訪問し,ワイオミング州に飛んで,グランドティトンとイエローストーンの大自然を満喫しました.14年~15年の年末年始は,妻が最後の3ヶ月,拠点をイギリスのオックスフォード大学に移したため,パリとロンドンで観光とお買い物を楽しみました.これからは,こんなに頻繁には海外旅行はできないかと思いますが,せっかくの機会でもあるので,大いに楽しみました.年に2回ほどしか会えないのは寂しくもありましたが,会えるときくらいは贅沢をしました.
ふだんは,日々,ツイッター上で(DMも含めて)お互いの様子を伝え合っていました.私は,妻のツイートを見ながら,「ああ,今日はこんなことをしているんだな」などと思いながら過ごしていました.週末には,時間をあわせてスカイプをしました.90年代に自分が留学していた頃,電子メールはあったけれども,リアルタイムで海外での様子が分かったり,顔を見ながら話ができる(しかも無料)なんてのは,想像もつかないことでした.そのおかげで,寂しさも大いに緩和されたと思います.IT技術の発展は,われわれの関係の維持に大いに役だったと思います.
この2年間,私は研究資金にはあまり恵まれませんでしたが,妻が何を研究しているのか,どんな授業を受けているのかを伝え聞いて,ずいぶんと刺激を受けました.研究資金がないと,自前の調査をしたりするのは難しいですが,妻が向こうで学んでいる統計書を取り寄せて,少しずつ自分でかじったり,実証研究の話を聞いて,自分がいた頃のアメリカ社会との違いに想像をめぐらせたり,いろいろとできることもあるものです.また,もうすぐ科研の採択が発表される時期ですが,自分の留学経験などを活かしながらどういった研究を目指すべきかその方向性を考えたりする機会にもなりました.科研が採択されれば,そちらの方向に舵を切れるのですが.

2年が経ち,妻が帰国しました.妻の留学は,結婚式の後間もなくでした.自分が留学をして学位を取ったこともあって,留学することの素晴らしさは身をもって知っています.付き合いを始めた頃には妻の留学はすでに決まっていたこともあって,二人の愛を育みつつも,私が妨害したりすることなく妻には有意義な留学生活を送ってほしいと思い,サポートしようとしてきました.
妻が帰国し,これから結婚生活は第2ステージに移行するのだろうと思います.まだ松本と西宮という距離はありますが,これからの新しい生活をどのように作っていくかが,これからしばらくの二人の課題になります.