13 1月

Orange Network誌に「大統領選挙と選挙制度の不公平、そして民主主義のあり方」を寄稿しました.

2017-01-11 14.34.40ほぼ1年ぶりの投稿です.(ブログとして,ほとんど機能していないですね.)

現在,半期ですが,渡米しており,母校のUCIに滞在しています.そのようなわけで,いろいろ経緯はあるのですが,地元オレンジ・カウンティの日系誌である”Orange Network”誌に「大統領選挙と選挙制度の不公平、そして民主主義のあり方」という記事を寄稿しました.

著作権がどうなっているのかとかよくわかりませんので,場合によっては記事を削除するかもしれませんが,フリーペーパーへのギャラなしの寄稿ですし,オレンジ・カウンティの人たちだけしか読んでもらえないというのももったいないように思いますので,ここにアップしておきたいと思います.

原稿の内容は,選挙結果や制度についての説明をという依頼に基づいて書いた部分が多くを占めますが,一番言いたかったことは,最後のパラグラフですかね,以下,記事内容です.

—ここから—

2017-01-11 14.34.05「大統領選挙と選挙制度の不公平、そして民主主義のあり方」, Orange Network, January 2017, p.5

2016年11月8日、大方のマスメディアの事前予想を覆してドナルド・トランプ氏が大統領選挙に勝利した。これをめぐって、投票の公平性に関わる議論が起こっている。全米の総得票数は、クリントン氏の得票数がトランプ氏のものより多かったからである。しかし、合衆国の投票制度は単純な総得票数を争うものではないために、このような逆転現象が生じてしまったのである。本当にこのような制度は公平(フェア)なのだろうか? また、民主主義という制度にとって、現行の投票制度は適切と言えるのだろうか?
投票制度に関わる問題の中でも最も知られたものが、各州での得票が多かった候補者が、その州に割り当てられた選挙人を総取りする方法(エレクトラル・ボート)である。この方法の問題点としては、勝者に1票足りなくても、「少数派」となった人々の意志が選挙結果に反映されないことである。獲得票数の比率によってその州の選挙人獲得数を按分してはどうかという案もあり、メイン州とネブラスカ州ではそれに類する方法が採用されている。このような総取りの方法ため、多くの州では一貫して共和党か民主党のどちらかが勝利することになる。そして、「スウィング・ステイト」と呼ばれる共和党と民主党の勢力が拮抗している州が、そのときどきにどちらに転ぶかによって、全米の選挙結果が、事実上決まってしまうということが起こるのである。逆に、常に結果が一貫している州では、投票に行くモチベーションが下がってしまうという問題も指摘されている。
また、各州には選挙人(エレクター)の数が割り当てられている。最も人口の多いカリフォルニア州は、2016年選挙においては、他州に比べて多い55人が割り当てられていた。しかしながら、カリフォルニア州の選挙人数は、2004年以降55人のままである。その間カリフォルニア州の人口は増え続けているし、そうであれば選挙人の数も増えてよいのではないか? 実際、人口と選挙人の比を取ると、カリフォルニア州などでは選挙人数は過小になっており、ワイオミング州などでは過大になっている。ワシントン・ポスト紙(11月17日付け)によると、2016年において、ワイオミング州の1票は、カリフォルニア州の1票の3.6倍の重みがあるという。
さて、このような選挙制度は不公平なのだろうか? これは選挙制度のみならず、民主主義のあり方に関わる問題である。何を基本的に守らなければならない善と見なすかが違うと、現状に関わる認識も、何を改善すべきと考えるかも違ってくる。
もう少し踏み込んで説明しよう。「民主主義=多数決の制度」ではない。少なくとも完全にイコールではない。民主主義は、多数決を伴う側面を持っていることも確かだが、どんなに少数の意見であっても、それに耳を傾け、社会の構成員全員がよりよく生きられる社会を構想しようとする制度でもある。合衆国では、州の人口が少なくても、最低3人の選挙人が割り当てられている。これは、人口が少ない州を優遇することになるという側面もあるが、各州は合衆国の一員であり、人口の少ない州の少数の意見も大切にするという意志の表れでもある。各州の選挙人の数は繰り返し見直されているが、選挙人の数が単純な人口比で決まらないのは、そのような理由があるのである。
このところ、日本における安倍政権の誕生と「集団的自衛権」を含む「安保法案」の成立、イギリスのEUからの離脱(ブレグジット)、そしてトランプ政権の誕生と、世界は一時のグローバル化の流れから一転し、一国ないし強固な同盟国間の保護主義への道を歩み始めているように思える。民主主義とは一国内において成立するものというのが基本的な了解であり、各国政府は各国民のよき生を守ることに責任を持つ。しかし、戦後からの保護主義が続いていた1970年代までの世界とは違い、現在の世界は、人々もモノもはるかに緊密に結びついている。大国の急激な対外政策の変更は、その国だけでなく、世界の人々にもモノにも大きな影響を与える。だから、大国の政権が一国内の人々に対して責任を持つために、同時に他国に対して理解し配慮を示すことも求められるようになっているのである。過激と言われた選挙戦におけるトランプ氏の発言がどこまで軟化するのか。すなわち、国内の支持層以外の人々に対して、また投票権のなかった移民などに対して、どれだけ配慮を示せるか、そして、他国や他地域の人々やモノに対してひどい打撃を与えることなく柔軟な新機軸を打ち出せるかどうか、今後のトランプ氏の政権運営から目が離せない。

—ここまで—

13 5月

最低限のマナーを守ったレビューを

3日ほど前だろうか,アマゾンに長らく掲載されていた 辻・佐藤編著『ソーシャル・キャピタルと格差社会』への糞レビューが削除されていることに気がついた.本当によかった.
どういういきさつでそうなったのかは知らない.レビューアーが削除したのかもしれないし,何らかの手段が講じられたのかもしれない.
そのレビューの内容は,あまりにもひどいもので,本書の内容とは関わりのない,ソーシャル・キャピタル論全般に関わる恨み辛みが書かれているだけだった.おそらく中身は読んでいないのではないか.…実は,私は,何回かアマゾンとやりとりをして,あまりにひどい内容なので削除してほしいと依頼したが,そのときには取りあってもらえなかった.アマゾンとしては,個人に対する誹謗中傷のようなものでないかぎり,削除しないとのことだった.本書と無関係なレビューであったとしても,個人的な誹謗中傷ではないからとのことだった.ともあれ,あのような忌まわしいものが削除されてよかった.
私自身も,アマゾンで本を買うときにレビューを参考にすることはある.特に自分の専門外の本を買うときには,参考にすることが多い.星が何個付いているかというのは,レビューの中身を読まなくても,最初に目に付くものであることは確かである.だから,SC論に関心があって検索をしたが,星の数だけ見て,「買わんとこ」と思って買ってもらえなかったことも多かったのではないかと思う.潜在的読者を,あれで失ってしまったのではないかと思うと,とても残念である.
レビューを書いてもらうことは,よいことだと思う.ただし,最低限のマナーというものがあるだろう.自分の主張をするなと言うつもりは全くないが,本文の内容をちゃんと読んでから,本文の内容と絡めつつ,的確な主張してほしいと思う.単に,自分の主張や思考と相容れないのでダメな本だ,とだけ述べるのでは,本を評価したことにならない.そういうのは,著者に失礼だし,潜在的読者にとっても害でしかない.レビューに関わるリテラシーというものがあるかどうかは知らないが,常識的に,初めて出会った人に,いきなり「お前,馬鹿」とか言わないものだということが分かっていれば,最低限のマナーくらい自然に守れるものだと思う.

03 4月

アーカイブ化して再度公開するかどうか…

このウェブサイトをリニューアルしてから1月ほど経つ.2008年から7年ほど続けたわけだけど,2011年の頃のブログ記事をアーカイブとして再度アップするかどうか迷っている.
その後自分が震災にあまり関わらなくなってしまったので,妙な気恥ずかしさがある.どうしたものかな.

18 3月

数理社会学会第59回大会

3月14日(土)~15日(日),久留米大学で行われた数理社会学会第59回大会に参加してきました.
久しぶりのポスター発表でした.
タイトルは「寛容性尺度の構成と妥当性の検討」で,ずっとやってきている「寛容性」尺度のさらなる改変といったもの.なので,口頭発表にはそぐわないなと判断し,ポスターにしました.
いくつかのポイントがありました.

  • これまで作ってきた寛容性尺度を,対個人ではなく,対集団の形にしてみた.これは,ウォルツァーの寛容理論を参考にしたため.具体的には,ワーディングを,「人」→「人々」,「意見」→「価値観」とした.
  • 「不愉快な意見への耐性」にかかわる項目作りを工夫した.以前は2項目で聞いていたものを1項目で聞くようにしてみた.質問文が長くなったが,対象者の反応を見る限り,無理解という感じはなかったので,まずまずのものになったように思う.
  • 外国人にかかわるさまざまな変数を従属変数としたときに,一般的信頼は一貫して全く効かず,寛容性3因子のどれかが効くことが多いという結果となった.これは,ウォルツァー理論を支持する結果と言えるのではないか.
  • 全体として,改変した寛容性尺度の構成概念妥当性は,まずまずということになるだろう.

というところでしょうか.発表に来ていただいた方,それぞれに応じて,力点を変えながら説明できるというのは,ポスターの利点ではありますね.

自分以外の発表やシンポジウムは,なかなか刺激的だった.
数理モデルと実証とを常に結びつけようとしているF山さんの報告には,いつもながら説得性が感じられるし,経済学領域でのネットワークのモデルのレビューもしてもらえるので,いつも収穫が多い.
潜在クラス分析を用いた研究が増えてきているという印象だった.社会学はカテゴリカル変数を扱うことが多いし,クラスター分析よりは潜在クラスの方がいろいろな点ではるかに優れているので,こういった傾向は,これからも続いていくのだろうと予見させるものだった.しかし,そもそも数段階のスケールで聞いていたものを,わざわざカテゴリカル変数に落とすというのは,しばしば恣意的になるので,注意すべきだろうと思った.しかしそれでも,欠損値や「わからない」といった反応が多い場合には,それらをカテゴリとすることで,そういった反応をある程度きちんと取り込める点で,利用価値はあるものである.
シンポジウムは,これから自分が踏み出していこうと考えている方向のものだったので,特に理論的側面で,自分に欠けていると思われる点がいくつか発見できた点で,有意義だった.

さて,裏話的なことをいくつか.
今回,編集委員会と理事会との間の時間帯に,久留米大学の目の前を走っている久大本線で,日田まで行ってきました.ローカル線についつい乗りたくなるのです.全くの衝動的行動でした.しかし実は,日田まで行けず,1つ手前で降りました.というのも,日田での折り返しで2分しかなく,行きの列車が遅れていたので,日田に着くやいなや帰りの列車が発車という予感がしたからです.日田まで行きたかったw
懇親会の後,『ソーシャル・キャピタルと格差社会』が日本NPO学会で優秀賞を受賞したことを祝って,共編者の佐藤先生と,同書の執筆者のFさんと祝杯をあげました.後から数名も合流し,楽しいひとときを過ごしました.普段はやけ酒が多くても,たまには,歓喜の酒が飲めるというのは,人生にとってよいことです.
そう,そして,私の数理社会学会における理事職3期間を全うしました.まあ,ぼくは会長になることはないでしょうから,これで事実上気楽な立場になりました.これからは,テキトーなことも言えるなと思います.理事会の後の懇親会では,本当に解放された気分を味わいました.
編集委員会・理事会の前日(木曜日),編集委員会に間に合わないからということで,福岡市に前泊することにしました.松本から飛んでいる2路線の1つが福岡行きで,初めて乗りました.伊那谷と木曽谷の広さ(狭さ)が分かるとか,その向こうに富士山が見えるとか,なかなか楽しいフライトでした.
また,福岡では,中学時代の吹奏楽部の同期で,糸島市でお店をやっている何十年ぶりに会って飲みました.まさに時空を越えた出会いでした.こういった再会にしては不思議なことに,思い出話というよりも,現在までのそれぞれの遍歴とか,現代社会での渡り方といった話になりました.とにかく,まっすぐ一本な道なんてものが,絵空事に過ぎないと再認識するひとときでした.
というわけで,裏話の方が多くなりました.また,その都度飲んで,飲み過ぎたかも.
その後も,月曜日は,来年度の実習先への挨拶,火曜日は,卒論生の聞き取り先へのお礼など,バタバタしています.3月って,師走じゃなかったよな,と思わざるをえない感じです.

06 3月

新ウェブサイト

2015年3月より,新しい個人ウェブサイトをスタートさせました.

旧ウェブサイトのログは,順次重要なものから移行させる予定にしています.